光リカガヤク掌ニ

金ノ仏ゾ オハスナレ。

光リカガヤク掌ニ

ハット思ヘバ 仏ナシ。

 

北原白秋「掌」

 

◉不思議な光✨

 

とは不思議である。

ゲーテの最後の言葉は「もっと光を!」だったと言われているが、

光という語は、物理的な意味だけでなく、精神的な意味合いでも使われる。

白秋の詩もそうである。

 

光をプリズムで眺めても、色は出てこない。

光そのものは、透明で見えない。

しかし、闇の代表「黒」と光の代表「白」の物体の境界をプリズムで眺めたときに、そこにくっきりと、黄と青がグラデーションをなして浮かびあがってくる!

 

 

光を通してみた闇、青は内に向かって輝き、

闇を通してみた光、黄は外に向かって放射する。

 

 

◉シュタイナーの言葉を色彩で動く

この色彩の体験を、シュタイナーはこのように言葉で表している。(独語)

 

 汝の内を観よ  Schau in dich! (青)

 汝の外を観よ    Schau um dich!(黄色)

 

これを収縮拡散や渦巻きのフォルムのオイリュトミーで動くと、それはまさに共感覚の世界である。この色彩、言葉、フォルム体験を重ねていくと、次第に単なる表層の感覚を超えて、魂の根底の体験ー人間の「自我」であることが感じられてくる。

 

 

 

には、二通りあり、それを、テインクトゥーラピグメントという。

空や海の青のように、物体の表面につかずに、光と闇の出会いを通して現れてくる色は、ティンクトゥーラ「輝きの色」

例えば、海の水。青く見えるが手ですくっても透明。光が射さない深海は真っ暗な闇の世界。浅瀬は美しい水色に見える。

 

物質の表面に現れる色は、ピグメント「像の色」

例えば植物の茎や葉っぱの緑は、赤や黄の花びらの光り輝くような美しさよりも、むしろ落ち着いた穏やかな印象を与える。

生命は、地上の物質ではまずという色で現れるとシュタイナーは語っている。

は、いのちが、ものに宿ったときに現れる色なのだ。

 

だからひたむきに生きる植物の緑を見ると「生きよう!」という意志がわいてくる。

 

今は真冬だから、殆ど緑が見えないが。

 

 

 

◉目が太陽のように輝かなかったなら

 

目が太陽のように輝かなかったなら、

どうして光を眺めえたであろうか。

私たちの心の中に

神のような力がなかったならば、

どうして神的なものが

私たちを魅惑できたであろうか。

 

ゲーテの言葉より