アイとオソレ Ⅵ | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

アイとオソレ Ⅵ

(承前)タイトルが「アイとオソレ」であるにもかかわらずこれまで数回に渡って「愛以外」のものばかりを扱ってきました。そろそろクリスマスでもあることですし、今回はついに「愛」のことを書いてみようと思います。

とはいうものの、そもそも言葉というのは真理を表すことができない、というより真理は言葉によって直接に表すことができないものであり、表せるとしたらそれは詩や寓話などによってのみである、という事実を前にして非力な私はやはり手も足も出ずに立ち尽くすしかないのです。試みに、新約聖書のコリント人への第一の手紙13章・・・パウロによる愛についての非常に有名な叙述ですね・・を引用してみましょう。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私はやかましいドラ、騒がしいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山をも動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義をよろこばず、真実をよろこぶ。全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう。私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

(中略)

私は、今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」

いかがでしょうか?わかったようなわからないような・・そんな感じでしょうか?まず、この文章の前半部分では「愛」が如何に重要で必要不可欠なものであるかが説かれていますね。そしてそれに続いて「愛とはどんなものかしら」というのが説明されています。しかし、この書き方をみてもおわかりのように、ここでは「愛」の性質・属性を説明しているのであって「愛とはこうだ」と定義しているのとは違います。「直接的に述べている」わけではありませんね。

愛とはこれこれこういうものだ、愛の性質はこうだ、こういうものは愛ではない、などといくら述べたところでそれらは「愛」というものの本質には至ることができず、その周辺をぐるぐる回るだけになってしまうのです。そういうものなのです。要するに、言葉で理解するものでもできるものでもない、ということにもなりますね。

しかし、それでもやはりこの叙述は圧巻です。少なくとも今現在の自分が「愛であるかどうか」はこの記述によって検証できます。また、愛というものが「部分的なものではなく完全なものである」と述べています。これも非常に卑近なたとえに置き換えるなら「誰か特別な人やものだけに対する愛情」というのは本当の愛ではない、ということになります。つまり愛とは「完全なもの」「普遍的なもの」であり「あまねく在るもの」であり、おそらく「光」に喩えられるものなのでしょう。光があまねく全てを照らすようなものなのでしょう。以前のコラムで述べたことですが、愛というのは何かの行為である前に一つの「状態」である、一つの万遍ない状態である、それも「一部だけ愛である」ということはありえない、完全にその状態であるかそうでないか二つに一つしかありえないものなのです。

そして、もちろんある瞬間には完全に「愛の状態」であっても次の瞬間には恐怖にわが身を渡してしまうこともある、またその逆もある。その選択は完全に貴方の自由意志によるものです。ですから貴方の決意一つで、今ここで「完全なる愛」の状態になることもできるのですね。

愛にも種類がある、という言い方も存在します。いわゆるアガペーとかエロースとかフィリア、そういうものですが、本質的な愛というのはどうしてもただ一つであってそれがその時々でいろいろな形をとって表現されるということを指しているのだと考えられます。

私がここで言いたいのは、愛とそうでないものとを混同しないで下さい、ということです。これまでにも繰り返し述べているのですが、憎しみや怒りや嫉妬、悲しみ、傷つきなどは愛の反対物であって愛の副産物ではありません。それらがあるとき愛はなくなっているのです。愛しているから傷つく、のではなく愛がないから、あるいは愛でないから傷つくのです。このあたりは多くの人々にとって非常に重要かつ永遠の?課題なのかもしれませんね。怒りや悲しみについては、それが専ら相手のためのものであるならばまだ「愛」である余地があるのですが、「相手が自分の思い通りになってくれないことに対する」感情であるならばやっぱり愛の反対物に他なりません。

とにかく、近年「愛」という言葉は絶望的なほどに濫費され価値は下落する一方のように感じられます。しかし、だからといって愛そのものの価値が下がったわけではありません!それにしても、と思うのです。それにしても、いかに「愛」といわゆる「恋愛感情」が混同されていることか!恋愛感情の中にも一抹の「本質的な愛」が含まれていたりすることはあります。しかし、だいたいにおいて恋愛感情は先に述べた「憎しみ・怒り・嫉妬・悲しみ・傷つき・・・」などと容易に結びつきやすいのです。これは誰しも納得できるところでしょう。更にひどい場合には、単なる色ボケやら欲求不満でさえも「愛」という名を与えられて語られてしまうのです。

愛、というのは何らか特定の対象を必要とするものではないのです。まず自分がその状態になっていること、そうすれば「全てが」その愛の対象になる、あまねく愛で満たされるという具合です。

この「本質的な愛」の状態を知らないという人は絶対にいないはずなのです。どんな人でも絶対に知っている、忘れてしまっていることはあっても全く知らないということはない、そういうものです。

時あたかもクリスマスウィークです。信仰の有無にかかわらず、せっかくですからこういった「愛」について思いを馳せてみてはいかがでしょうか?