アイとオソレ Ⅳ | タロットリーダー碧海ユリカのスピリチュアルコラム 碧海ユリカと読む「奇跡のコース」

アイとオソレ Ⅳ

(承前)恐怖に端を発する様々なネガティブな感情の中でもとりわけ困ったものが「憎しみ」です。「憎しみを持つのはよくありません」と、私も声を大にして申しますが、これは別に道徳的な意味で「人を憎むのは悪いことだから止めましょう」といっているのではありません。そうではなくて、憎しみは貴方自身に多大なダメージを与える、つまり憎しみを抱いているその当人が最もダメージを蒙る感情だから良くない、と言いたいのです。

あらゆるネガティブな感情の中で最も破壊力の強いものがこの憎しみかもしれません。憎んだ相手にたとえ生霊のように想念を飛ばしたところで当人自身も非常なダメージを受けるわけですし、相手にネガティブなものが少なければせっかく(?)の生霊=想念もそこに取り憑くことはできずに跳ね返されてくるのですから、本当に何も良いことがないのです。

前回述べたように、憎しみもまた恐怖から派生した感情です。何かに対して憎しみを抱く、ということは当然その前提として攻撃を受けたり被害を受けたりして、あるいは将来そうなるかもしれないという脅威を抱いているわけですね。つまり、憎むべき相手=敵、が存在してしまうのです。恐怖の場合と同様、この「憎むべき対象」もさまざまです。誰か特定の人物だけではなく、組織や国や世界や、運命や神や、自分の性格やら体形やら、あらゆるものがこの対象になりえます。いかなる意味においても自分にとって何らの脅威になりえないものに対して憎しみを抱く、ということはないはずです。一見それが貴方より断然力の弱いようなものであったとしてもやはりどこかで脅威を抱いているはず・・・つまり強大な敵となっているということになるのです。

憎しみが「強い不安感」と並んでいかに怖ろしい破壊力を持つか、言い換えれば如何に貴方を不幸にするか、これはちょっと考えても経験的におわかりかと思いますが具体的に説明してみましょう。

前回、幸せや喜びを味わっているときには必ずそこに「一体感」が伴うのに対してネガティブな状態のときにはその「一体感」が味わえないと書きました。もっと言えば、ネガティブな感情を抱いているときーネガティブな状態になっているときというのは「分離感」とも言うべきものがこれまた必ず伴っているのです。分離感というのは例えば「何をしても楽しくない、嬉しくない」などという状態を思い浮かべてくださればよく分かるのではないでしょうか。好きなものを食べても美味しくない、映画をみても楽しくない、好きなはずの音楽を聴いても何も感じない、などなどこれらは全て上記の「一体感」を失っているからですね。まあ「鬱」と言ってしまえばそれまでですが、特に鬱病と診断されるわけではなくても「憎しみ」に支配されているときたいていの人はこんな状態になってしまいます。これこそが「不幸だ」ということの意味です。

恐怖や不安などに比べて憎しみというのはその対象、つまり「敵」の存在がかなりハッキリしています。敵と自分とは明らかに別のもの、対極にあるもの・・・自分が「善」なら敵は「悪」だし、自分が「正」なら敵は「邪」である、つまりとりわけその「分離度」が高いということになるのです。そして上記のことからも明らかなように、分離感が強いほどつまり一体感からかけ離れているほど不幸だという公式が成り立ちます。

ここで注意していただきたいのは、言うまでもないことですが「憎しみを抱いてしまうような事態に見舞われたから不幸」なのではなくて、あくまで「憎しみを抱いている」というそのことが不幸なのです。

さて、貴方が誰か或いは何かを憎んでいるとしましょう。この場合、貴方はまず間違いなくその対象を理解していないのです。だからこその「分離感」なのですが、たとえその対象がどんなに貴方にとって身近なものでも、つきあいが長いものであっても、ひょっとすると貴方の一部であるようなものであったとしてもやはり理解はしていないのです。理解できないから、どういう姿勢をとってよいかわからないから憎む、ということは多々あります。理解しあっていて尚且つ敵同士、というのはいわゆる「好敵手」つまり「よきライバル関係」みたいなものですから、厳密にはここで述べているような「敵」とは違います。また、その対象を理解していて本音では愛情を抱いてすらいるのに、自分がそれを愛していると認めたくないから、或いは愛情の表し方がわからないから「憎む」という姿勢をとってしまう、ということさえありえます。しかし、たいていの場合は「憎い」その対象を理解していないのです。変な例かもしれませんが、何かとんでもない悲惨な事態に見舞われたとき「運命は、神は、何故私をこんな目に遭わせるのだ」と、その「何故」が理解できないから運命なり神なりを憎んでしまったりするでしょう。逆に言えば、人は自分が本当に理解したものを「憎む」ということはできないのです。たとえ好きになれなくても、共感も同意もできなくても、理解していれば「憎しみ」は生じません。理解、というのは当然のことながら「一体感」と似たようなものですから理解してしまえばそこに「分離感」が生じなくなるのです。

誰かに対して憎しみを抱いたとき、その相手の不幸を願ってしまうケースもよくありますね。うんと極端な言い方をすれば、これは一種の「殺意」につながります。そして以前から繰り返し述べているように潜在意識の部分には「自他」の区別がないということを考えれば、誰かに対して強い憎しみを抱くということはとりもなおさず相手=自分の不幸を願っている、自分に対して殺意を抱くのと同じことになってしまうのだ、となるでしょう。これもまた大きな破壊力になっていますね。

このことがよくわかっていれば「憎しみを抱く」「相手の不幸を願う」など言語道断、それらが道徳的にどうのこうの、というのではなくて自殺行為だからという理由で自分の意識から追い出そうとするはずです。しかし、これがまた容易ではないことだったりするのです。

憎しみを抱いているというまさにそのことが不幸である。憎しみを抱いている当の本人も決して楽しくはない、それどころか苦しくてイヤだという自覚もあるはずである。なのにどうしてもその感情を手放せず、その状態から抜けられず、それで更に苦しんでしまう・・・・珍しくもないことですよね。人によっては「こんな状態になったのはあの人のせい」だとしてますます憎しみが増強されてしまったりもするようですが、これは勘違いというものです。

さて、この苦しい感情を手放すにはどうしたらよいのか?それについて少し考えてみましょう(この項続く)