何度かあちらの世界へ逝きそうになりながらも、ふんばって持ちこたえ、長らく私を内側からボカスカ蹴り続け、私の肋骨と腰骨と臍を消滅させた物体『♂』が、遂にこの世へお出ましになりました。


この『未知との遭遇』の手段として、「テレビ観ながらラクラク和痛分娩」を目論んでおった私でしたが、自分の体質及び中身のデカさ故に見事に夢破れ、麻酔の恩恵はほとんど味わえずに、日本伝統の「痛くて辛いお産」をがっつりと体験させていただきました。

「たまにいるんですよね、そういう人」と、後で先生に言われちゃいましたが……。

とにかく、実体験としての「産みの苦しみ」を味わい、もうおいそれとあの言葉を使えなくなったような気がいたします。


感想としては、あれぞ、デスパレートな女の姿でありましょう。


ピークに達しつつある時のあの、もう、「この際、切られようが、何されようが、吸引でも鉗子でも、帝王切開でも何でも、とっととやって、この状況から一秒でも早く解放してぇーーーッ!」という、破れかぶれ感。

そして、結論としては、お産の痛さ、大変さと、我が子の可愛さ、感謝の質や量は全く関係無い。少なくとも私の場合は。

1ミリも、比例も反比例もいたしません。


めったやたらとエコでナチュラルでロハスでスローなことが「ポリティカリーコレクト」なものとして賞賛される今時分でありますし、その心意気はときにステキでありますが(自宅出産とか、ある意味憧れる)、求める者、必要とする者に対して、お産に適度で適切な医療介入と選択の余地はあってしかるべきだと思う。

痛みに弱い人には、麻酔への選択機会がもっと用意されても良いでしょう。

子供は産道を通らないと根性が付かないとか、ワケのわからぬことを言い放つヘンテコなお年寄りもおり。

「耐えてこそ」的独特な美徳?は、個人的にはくそくらえです。

まあ、「オギャー」を聞けば一瞬にしてどうでもよくなるというのも、聞いた通りではありましたが。



さて、こんな私が立派に育児を全うできるのか?


初日はホニャホニャ泣く姿に「これしきならへっちゃら」などと大勘違いしましたが、二日目の夜に勘違いなお世話をして発狂させた際には、まるで盛夏のセミのような大音量で鳴かれ、鼓膜が破けるかと思いました。

このミニサイズのどこに、そんな拡声器が入っているのやら。


息子が生まれた翌日の晩、みさき のゑ さんのブログで知った『獅子座の新月のアファメーション』をしたためてみたことをふと思い出して、ハッとする。


私は、○○の頼れる母親になっています。

私は、○○への感謝を忘れていません。

私は、ネガティブな気持ちで育児をしていません。

私は、これからの育児の助けになるようなアイディアを見つけています。

私は、夫が楽しんで○○と関わろうとする環境を築いています。

私は、……。



これって、願いごとをなんとなく書いて、何となく叶います様に~、というものではなかったのだわ、と今更気付く。

決意表明を再確認して、自分自身で成功へ導くためのお手伝いなのだわ。


私は、○○との生活を心から楽しんでいます。



三時間泣き叫び続けた果てに新生児室へ引き取られて行った息子を見送り、ひとりぼっちになった部屋で鏡に映った自分をぼんやり眺め、「あ、そうでした」とお腹を見下ろした瞬間、なんと表現したらよいのやら……。

ピョン吉に去られたヒロシのようなせつなさを(弱冠)憶えた昨夜でした。


私は、心と身体の健康を保っています。



今朝は沐浴の実習で思い切り泣かれましたが、その後、新生児黄疸が出てきてウトウト寝てばかり。

取り敢えず、元気に育ってくれさえすればなによりです。