鯉のぼり



 カーペット敷きの床の上にひっくり返って、庭に面して開け放たれたガラスの引き戸の間から、高くて真っ青な空を突っ切ってぐんぐん移動していく雲を眺めていた。

 たまに、カタカタカタ……という音と一緒に、鉄のポールに括り付けられた大きな布の鯉がそよ風に煽られてぶわっと舞い上がる。

 同時に、部屋の中に温かい芝生の香りが吹き込んで来る。


 名も無き時間。


 弟がトコトコやってきて、「なにしてるの」と言って横に並んで仰向けに転がった。

「なにもしてないよ」

「なに見てるの?」

「お空」

「お空になにかあるの?」

「ない」

「じゃあ、どうして見てるの?」

「どうしても」

「どうしてもってどういう意味?」

「どうしてもはどうしてもなの」

「どうしてもはどうしてもなのってどういう意味?」

 こういう時の弟はしつこい。

「うるさいなあ、もう」

 ごろりと背を向けると、すかさず作戦を変えてくる。

「うるさいなあ、もう」

「やめてよ」

「やめてよ」

「やめな」

「やめな」

「いいかげんにしなさいよね」

「いいかげんにしなさいよね」

「むぎゅぅっ!」

「わーん、ママーっ、まーちゃんがつねったー」

「しっ」

 厳しい顔をした母が、人差し指を唇の前にかざし、もう一方の人差し指で部屋奥のベビーベッドを指した。

「どうしてそういうことするのっ」

「だって、」

 怒られて、恨みがましく見つめる先に、涙目の弟がむっちりした手で母のエプロンを掴んでいた。ちょっと悪いことをしたかなぁと思って、少し不憫になる。

「ダイヤモンドゲームやる?」

 聞くと、不機嫌そうな顔のまま黙ってコクンと頷いて、トコトコ付いて来た。

 私も弟も、退屈しきっていたのだ。



「ねー、今日はどっか行くのー?」

 キッチンで昼の支度をしている母に向かって叫んだ。

「明日からお出かけするんだから、今日はおうちでゆっくりするの。それに宿題あったでしょ。やっちゃいなさい」

「えー、じゃあ、たかしやまに行こうよー」

 弟が拗ねた声で叫ぶ。

「高島屋でしょ」

 すかさず訂正してやると、

「うるさいなあ、もう」

と、返して来る。

「うるさいなあ、もう」

「あ、さっきのまねした」

「あ、さっきのまねした」

「まねしないでよっ」

「まねしないでよっ」

「まーちゃんのばか」

「ひろちゃんのばか」

「あ、いまのはちがうよ」

「あ、いまのはちがうよ」

「だからーっ」

「だからーっ」

「ギャーッ」

 癇癪を起こした弟が金切り声を上げた。

「いい加減にしなさいっ」

 母が再びキッチンから怖い顔をのぞかせる。

「だって、まーちゃんが、」

「さっきは同じことしたんでしょ。自分が嫌ならやめなさい。そうじゃないなら喧嘩しない」

 怒られて、今度は弟がぷーっと膨れる。

「もうすぐお昼だから、パパ呼んで来てちょうだい」

 ぱっと顔を輝かせ弾かれたように駆け出す弟を追いかけ、二人でドタドタと階段を上った。薄暗い部屋でぐうぐう寝ている父の上に飛び乗って叩き起こす。

「ねー、どっか行こうよーっ」

「ぐうー」

「起きてーっ」

 父の上に馬乗りになってジタバタする弟を尻目に、枕の上に立って勢い良く雨戸を開けると、五月の光と風が部屋に飛び込んできた。

「こちょこちょこちょー」

 背後の父子はくすぐり合戦を始めている。

 階下から母の「ご飯よー」の声。そのまた後ろから妹のフニャフニャした泣き声。向かいの家からも兄妹が争う声がかすかに聞こえてくる。それに合わせるように、そこの家の犬が吠えている。
 カタカタカタ……、突風が鉄のポールを僅かに揺らす。遠くでガシャーンと自転車が倒れたみたいな音。壁にボールを打ち付ける音、お隣のお兄さんのレコードの音……。

「どっか行こうよおー」

 父の足にしがみついた弟が、諦めずに訴えている。


 庭の鯉のぼりだけが、我関せずの風体で気持ち良さそうに泳いでいる。



 * * * * *

ハワイなどに行く習慣の無かった我家のゴールデンウィークは、いつも結構退屈だったかも。

ダラダラなGW中盤、オトナになった今は夜な夜な出掛ける用事があるものの、まったりした昼間は今も昔も大して変わらないかなぁと、ふと思い出したのでした。