
全地が一つの言語、一式の言葉だった頃、バビロニアの人々は、
「さあ、我々のための都市を、塔を建て、その頂を天に届かせよう。そして、大いに我々の名をあげ、地の全面に散らされることのないようにしよう」と、
神への崇拝のためではなく、建築者達の名を上げるために、塔を建設しました。
それに怒った神は、人々の言語を混乱させ、人々が互いの言葉を理解できないようにさせて、バベルの塔の建設を途中で終わらせました。
そして混乱した彼らは、世界各地へと散って行ったのです。
学生時代、英語の勉強で挫けそうになる時には決まって、この逸話を恨めしく思っていた私です。
言語は、バラバラであるべきなのでしょうか。
人種は、多様であるべきなのでしょうか。
それとも、やはり「違い」があるからこそ、成熟発展するのが文化文明なのでしょうか。
或いは単に、1個のウィルスにやられて全滅しないように、差別化の道を敢えて選んで来たのが、人間という生物なのでしょうか。
少々話は逸れますが、動物は同種のなかでも、自分と一番遠い型を選んで繁殖の道を進むのだと聞いたことがあります。
一方、人間だけが「似た種類」を頭で選んでしまうのだと。
けれど、動物的には、自分と一番遠い香り(体臭)を好むのだそうです。
思春期ムスメの「お父さん臭い~」は、実は自分の体臭と同種であることを感知し、「好ましくない」と決定することによるものだそうです。
(要は、無意識に慣れ親しんだ香りに対しては非常に閾値低く、過剰に反応してしまう、ということだけかもしれませんが)
そこから考えると、人間も実は、混じり合うべき傾向にあると言えるのかもしれません。
けれど、混じることで人種や言語に違いが無くなれば、争いは起きなくなるのでしょうか?
映画「BABEL」では、一発の銃弾により、バラバラになっていた人々の言葉が通じ始めました。
言語が一緒であろうとも、如何に巧みに言葉を操ろうとも、心の奥底の真実を語らなければ決して分かり合えることは無いのではないか。
同種間であろうとも、如何に同じような環境に属そうとも、「違う」ということを心底理解し受け入れることをしなければ、本当の許しは無いのではないか。
未だ封切り直後ですので詳しいことは書かずに留めますが、
これは悲劇ではなく、強烈な希望が描かれた映画だと感じました。
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ところで、「バベル」の、日本語会話にも字幕が付いたという経緯について。
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200704280240.html
例えばアメリカでは、普通のテレビ番組にもキャプション(字幕)機能があることは至って一般的なことですが、それはそもそも多民族国家であることがベースにあり、人々が「違う」ことに対する認識が進んでいるからです。
一方、日本では未だ「マイノリティ」に対する認識が浅い。
「言論の自由」などと言うと、いかにも米国を始めとする欧米のものであるような気がしますが、
基本的に、未だ単一民族国家島国風な日本国では、「自分も他人も似たようなもの」という観念故に、善くも悪くも「無言で汲む」という文化も発達しているように思い、結果、逆にアメリカなどの多様性のある国に比べ、より無意識に無責任に「発言」をしているようなことが多いと感じます。
「こんなことを言ったら悪いかも」とか、「こんなこと言ったら相手を傷つけるかも」という発想は、実は日本よりも欧米の方が進んでいる、もっと言えば、「システム化」している。
「同種」ばかりの日本では、「違い」の認識を与えられる機会が少ない分、そのことについて考える機会も少なく、よってレベルが低いのは否めない。
私が最も嫌だと思う事は、「他人も自分と同じ」と思い込むその無神経さと想像力の無さに直面することが多いことです。
相手も自分と同じ意見だと思い込んで話をし、意見を押し付ける。
それに対して反論すると、今度はビックリして「怖い」などと言ったりする。
いい加減に幼稚過ぎる。
そして、「マイノリティ」として存在する機会が自分には絶対に起こりえないと信じ込んでいる鈍感さが、少数派を追いつめる要因にもなっていると信じます。
勿論、情報や交通システムの発達のお陰で地球が狭くなったことで、世界を知り「違い」を知るチャンスは確実に、飛躍的に増えました。
世界を見る機会にも多く恵まれ、「違い」に接し考える機会が多いにも関わらず、三国嫌いで福祉にも理解を持たない救いようの無い政治家よりも、「今時の若者」のほうにこそ、ずっと多くの希望の光を見る気がします。
やはり、「知らないこと」は「知ろうとしないこと」を含み、そこから生まれる「鈍感」は罪だと思うのです。
人のことを言えた分際ではありませんが、肝に銘じておきたいとは思っています。