なんとなく ヨーロッパ -117ページ目

 なんとなく ヨーロッパ

 フランスに住んでいるので、パリとフランスの話が多くなると思いますが、
 まぁ気分で。

 


奇跡講座 テキスト編 p240 – p242


自我による赦しの計画は、神によるそれよりもはるかに広範に用いられている。なぜならば、それが癒されていない治癒者(ヒーラー)たちによって担われているからであり、したがって、それは自我に由来するものだからである。


癒されていない治癒者(ヒーラー)は、その言葉の定義から言っても、自分が受け取っていないものを与えようとしている。


真理を求めて空想の中を探す治癒者(ヒーラー)は誰であれ、癒されていないに違いない。なぜなら、彼は真理をどこに探すべきかを知らず、したがって、癒しの問題に対する答えをもっていないからである。



癒されていない治癒者(ヒーラー)たちはみな、何らかの形で自我による赦しの計画に従っている。神学者であれば、自分自身に有罪宣告をし、有罪宣告を教え、恐れに満ちた解決策を唱導するだろう。彼らは有罪宣告を神の上に投影しているので、神を復讐する存在であるかのように扱い、神からの罰を恐れる。彼らのしたことは、単に、自我と同一化して、自我のすることを知覚することにより、この混同のゆえに、彼ら自身に有罪宣告をしただけである。


いくつかある新しい形の自我の計画も、古くからのものと同じく役に立たない。なぜなら、形は問題にならず、内容は変わっていないからである。たとえば、新しい形の一つにおいては、精神療法士(サイコセラピスト)が悪夢の中の自我の象徴を解釈した後、それらを悪夢が実在すると証明するために使うことがある。そのようにして悪夢を実在のものにした上で、今度はその夢を見ている者の重要性を軽視することにより、悪夢の結果を一掃しようとする。もし夢を見ている者も実在していないと見なされるのであれば、これも癒しをもたらす一つの手法となるだろう。だが、夢を見ている者と心が同一視されるなら、聖霊を介した心の訂正能力は否定されてしまう。これは自我の見地からしても矛盾したことであり、混乱している自我ですら、通常、この矛盾に気づいている。
Some newer forms of the ego’s plan are as unhelpful as the older ones, because form does not matter and the content has not changed. In one of the newer forms, for example, a psychotherapist may interpret the ego’s symbols in a nightmare, and then use them to prove that the nightmare is real. Having made it real, he then attempts to dispel its effects by depreciating the importance of the dreamer. This would be a healing approach if the dreamer were also identified as unreal. Yet if the dreamer is equated with the mind, the mind’s corrective power through the Holy Spirit is denied. This is a contradiction even in the ego’s terms, and one which it usually notes even in its confusion.



神が「光あれ」と言ったとき、光は現れた。精神療法士(サイコセラピスト)がするように、闇を分析することによって光を見出せるだろうか。あるいは神学者がするように、自分自身の中に闇を認めた上で、それを除去できる光は遠くにあると強調しつつ、その光を探し求めることによって、光を見出せるだろうか。癒しは神秘的なものではない。理解されなければ何も変わることはない。光は理解そのものだからである。
When God said, “Let there be light,” there was light. Can you find light by analyzing darkness, as the psychotherapist does, or like the theologian, by acknowledging darkness in yourself and looking for a distant light to remove it, while emphasizing the distance? Healing is not mysterious. Nothing will change unless it is understood, since light is understanding. 



人がどこに向かって進んでいるかを指摘することは、その人の助けになるかもしれないが、方向を変える手伝いもしない限り、その指摘の意味は失われる。癒されていない治癒者(ヒーラー)は、その人のためにそれをすることができない。彼は自分自身のためにもそれができないからである。治癒者(ヒーラー)が提供できる唯一の有意義な貢献は、自分のために方向を変えてもらい、もはやいかなる種類の悪夢も信じていない者となった自分を、実例として提示することだけである。その結果、治癒者(ヒーラー)の心の中にある光が、質問者に答えることになる。そして質問者は、自分に光が見えるからこそ光は存在するということを、神と共に必ず決断することになる。そして質問者による承認によって、治癒者(ヒーラー)は光がそこにあると知る。これが、知覚が究極的に智識へと翻訳される方法である。奇跡を行う者は光を知覚することから始め、絶え間なくその知覚を延長させ、その承認を受け入れることによって、彼の知覚を確かさへと翻訳する。光が生み出す数々の結果が、光がそこにあることを彼に確信させる。



治療師(セラピスト)は癒さない。彼は癒しが起こるままにする。彼は闇を指し示すことはできるが、光は彼からのものではないので、自分で光をもたらすことはできない。だが、光は彼のためのものであるから、彼の患者のためのものであるはずである。聖霊だけが唯一の治療師(セラピスト)である。聖霊は自らが導き手となるいかなる状況においても、癒しを明確にする。あなたには、ただ聖霊にその機能を果たしてもらうことができるだけである。聖霊はこのためにいかなる助けも必要としない。あなたが助けるようにと聖霊が送ってくる人を助けるために、あなたが具体的に何をすべきかは聖霊が教えてくれる。そして、あなたが邪魔をしなければ、聖霊はあなたを通して彼に語りかけるだろう。あなたは助けるために導き手を選ぶのであり、誤った選択は助けにならないと覚えておきなさい。しかしまた、正しい選択は助けになるということも覚えておきなさい。聖霊を信頼しなさい。助けることが聖霊の機能であり、聖霊は神からのものだからである。自分自身ではなく聖霊を通して他の人々の心を聖霊に目覚めさせるにつれて、あなたは自分がこの世界の法則に従っているのではないと理解するようになる。しかし、あなたが従っている法則には効力がある。「善なるものとは、効力のあるもののことである」とは、理にかなっているが不十分な言葉である。善なるものだけが効力をもち得るのである。それ以外のものはまったく効力がない。
A therapist does not heal; he lets healing be. He can point to darkness but he cannot bring light of himself, for light is not of him. Yet, being for him, it must also be for his patient. The Holy Spirit is the only Therapist. He makes healing clear in any situation in which He is the Guide. You can only let Him fulfill His function. He needs no help for this. He will tell you exactly what to do to help anyone He sends to you for help, and will speak to him through you if you do not interfere. Remember that you choose the guide for helping, and the wrong choice will not help. But remember also that the right one will. Trust Him, for help is His function, and He is of God. As you awaken other minds to the Holy Spirit through Him, and not yourself, you will understand that you are not obeying the laws of this world. But the laws you are obeying work. “The good is what works” is a sound though insufficient statement. Only the good can work. Nothing else works at all.
 

 


〔 2019年 夏 南仏の旅 37 〕   8月28日 ( 水 )

ラ・クヴェルトワラドを出発したのが14時30分。
次の目的地はサン・テニミ(Sainte-Enimie)。
けっこう遠いんです。110㎞くらい。





途中で世界で一番高さがあるという橋を渡りました。(上の写真)
谷の上に造られていて、まだ新しいから白くて綺麗です。
横をチラっとみたら、かなり下に谷がありました。
ゆっくり見れなかったのが残念。

 

 




高速道路を下りてから、村まで40㎞くらいある。
田舎道だけど、ちゃんと舗装してあるし、センターラインもあります。
しかし田舎道を40㎞はちょっとつらいな。
帰りも40㎞走らないと高速に乗れないというコトだな。
だんだん山の中に入ってきました。ていうか、だいぶ高いところに来たなぁ、という感じ。
山深いところですな。
『ほんとにこの先に美しい村があるのか。・・・平家の落武者部落かよ。』
なんだかヤバイ感じの道になってきました。
山の中腹を削って道を作ったみたいな・・・
ガードレールなかったりして、30㎝くらいの石の縁があるだけみたいな。
なにかの拍子に、道から外れたら、そのまま数百m転がり落ちるだろうな、
と思ったけど、なるべくそういうコトは考えないようにして、運転に集中しました。
さいわい対向車はあまり来ない。たまに来たけど。

途中、左に曲がると高速道路という表示があったので、

そっちの道も高速に繋がっているんだな、と思いました。
今度は下り坂になりました。9%の下りって表示があった。かなりキツイ下りですな。
もっと行くと、向こうから自転車で走ってくる人がいました。

ママチャリじゃなくて、ツール・ド・フランスに出るような自転車でした。
『あの坂を上るのかよ。』

カーブが多くなって、道もちょっと狭くなってきました。
ようやくサン・テニミの村が見えました。
全景が撮れる場所があったので、そこに車を止めて、写真を撮りました。

 

 

 

 

よく使われている村の写真は、ここから撮った写真なんだ。
そうか、写真だけ見ると、ワカラナイけど、スゴイ山奥で、スゴイ道を来るんだ。

 

 




村に入ると、けっこう観光客が来てました。
駐車する場所もそれなりにありました。

 

 

 


綺麗な水の細い川が流れていました。
村が山の斜面に貼り付いているような感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




やっぱり中世の道とか建物が残っていました。
村自体はそんなに大きくない。
ただ、坂ですな。




 

 

 

 


〔 2019年 夏 南仏の旅 36 〕   8月28日 ( 水 )


 

 

 

 











 


城と呼ばれる館みたいなものがあったけど、個人の所有なのかな。(末裔か)
入れませんでした。(上の写真)
扉のところには、予約をすれば見学できるみたいな説明があったけど。



 

 

 

 

 


教会のすぐ横に小さな墓地がありました。
墓石が古くて、なぜか丸い。
テンプル騎士団の墓はこうなのか。

 

 
















 

 

 

 




ちょっと珍しいキーホルダーがあったので買いました。6ユーロ。(下の写真)
テンプル騎士団の剣をデザインしたみたい。
その下は、エグ・モルトで買った0ユーロ札。(値段は2ユーロだったかな。)
右はアンティーブのペイネ・ミュージアムで買ったキーホルダー。
左は蝉の形の石鹸。ラベンダーの香り。(ムスティエ・サント・マリー)






この村には2時間くらいいたかも。