奇跡講座 テキスト編 p.308 – p.311
愛のみが強きものである。愛は分割されていないからである。強き者たちは攻撃しない。なぜなら、彼らにはその必要がないからである。攻撃という考えがあなたの心に侵入可能となる前に、あなたは自分のことを弱いと知覚したはずである。あなたは自分自身を攻撃し、攻撃に効果があったと信じたからこそ、自分自身を、弱められた者と見ている。もはや自分自身と兄弟たちを対等の者とは知覚せず、自分のほうが弱いと見なしているため、あなたは自分で作り出した状況を「平等化」しようとする。そのために、あなたは攻撃を用いる。攻撃が自分自身を弱めることができたと信じているからである。
だからこそ、自らが傷つかざる存在であるという認識が、あなたの正気を回復するために非常に重要なのである。というのも、自分が傷つかざる存在であることを受け入れるなら、あなたは攻撃には何の効果もないと認識していることになるからである。
That is why the recognition of your own invulnerability is so important to the restoration of your sanity. For if you accept your invulnerability, you are recognizing that attack has no effect.
聖霊の愛があなたの強さである。というのは、あなたの愛は分割されており、それゆえに、実在しないからである。愛を攻撃するとき、あなたは自分自身の愛を信頼できない。分裂した心で完全なる愛を学ぶことはできない。なぜなら、分裂した心は自らを未熟な学習者としてしまったからである。
あなたは愛の意味を知らない。そしてそれがあなたのハンディキャップである。自分で理解していないことを自分自身に教えようとしてはならない。また、自分のゴールが明らかに失敗した場所に、カリキュラムのゴールを設定しようとしてはならない。
You do not know the meaning of love, and that is your handicap. Do not attempt to teach yourself what you do not understand, and do not try to set up curriculum goals where yours have clearly failed.
自我のルールは「探せよ、されど見つけることなかれ」であると、私は言った。これをカリキュラム用の言葉に翻訳するなら、「学ぼうと努めなさい。しかし修得してはならない」となる。このようなカリキュラムの履修目標がもたらす成果は、わかりきっている。正当な補助教材、真の指導、学びを導く分別ある導きの一つひとつが、誤って解釈されることになる。というのも、それらはすべて、この奇妙なカリキュラムが対抗している学びを促進するものだからである。もし、学ばずにいることをあなたが学ぼうとしており、あなたの教えの目的がそれ自体を失敗させることであるなら、混乱以外の何を期待できるだろう。そのようなカリキュラムは意味をなさない。こうした「学び」の試みがあなたの心をあまりに弱めてしまったために、あなたは愛せなくなっている。というのも、あなたの選んだカリキュラムは愛に抗うものであり、つまるところ、自分自身を攻撃する方法を教えるコースとなるからである。
あなたの学びの可能性は、正しく理解されるなら限界がない。それはあなたを神へと導くものだからである。神への道を知り、それを学ぶための神のカリキュラムを理解している教師に従うなら、あなたは神への道を教えることができ、それを学ぶことができる。
Your learning potential, properly understood, is limitless because it will lead you to God. You can teach the way to Him and learn it, if you follow the Teacher Who knows the way to Him and understands His curriculum for learning it.
