奇跡講座 テキスト編 (47) |  なんとなく ヨーロッパ

 なんとなく ヨーロッパ

 フランスに住んでいるので、パリとフランスの話が多くなると思いますが、
 まぁ気分で。

 

 

奇跡講座 テキスト編 p98 - p100

自我は文字通り比較によって生きている。対等性とは自我が把握できる範囲を超えており、慈愛は不可能なものとなる。自我は決して豊かさから与えることはしないが、それは、自我自身が豊かさの代替として作り出されたものだからである。
 

肉体の欲望の起源は、物理的なものではない。自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。
Body appetites are not physical in origin. The ego regards the body as its home, and tries to satisfy itself through the body.
しかし、それが可能だという考えは、心による決断であり、心は、何が本当に可能なのかについて完全に混乱をきたしている。
 
 
自我とは、心が抱く「自分は完全に自立している」という信念である。自我は絶えず霊からの承認を得ようとし、それによって自らの存在を確立しようとしているが、そうした試みは徒労である。智識の中に居る霊は、自我に気づいていない。霊は自我を攻撃しない。ただそのようなものをまったく思い描けないだけである。自我も同様に霊に気づいてはいないが、何か自分よりも偉大なものに自分が拒絶されていると知覚してはいる。
 
 
いわゆる「生存のための戦い」とは、自我による自己保存のための苦闘にすぎず、自我のはじまりについての自我による解釈に他ならない。このはじまりは通常、物理的な生誕と結びつけられる。なぜなら、それ以前の時点で自我が存在していたと主張することは難しいからである。より「宗教的な」自我志向の者は、魂はそれ以前にも存在し、自我としての人生という短期的な逸脱に陥った後も存在し続ける、と信じるかもしれない。なかには、この逸脱のせいで魂は罰せられるとさえ信じる者もいる。けれども、救済は霊には当てはまらない。霊は危険にさらされてはおらず、救助される必要はないのである。
However, salvation does not apply to spirit, which is not in danger and does not need to be salved.