終戦記念日にあたって…二度の御聖断 | 弥生の空 -日本の真実-

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 <「70年前のこの日、12時に玉音放送がありました。日本はとうとうポツダム宣言を受諾し、録音していた天皇陛下の録音盤をラジオで流したのです。玉音放送の中の、「・・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」の部分について、「国民に耐えろという意味か?」と誤解している人が多いのですが、そうではありません。
これは昭和天皇の御心なのです。

 

昭和天皇の二度の御聖断の内容を見てみましょう。


1945年(昭和20)8月10日02:00
『前日深夜から続く御前会議』

(鈴木総理)
「議をつくすこと、すでに数時間に及びまするが議、決せず、しかも事態はもはや一刻の遷延をも許しませぬ。
まことに異例で恐れ多いことながら、この際は聖断を拝して会議の結論といたしたく存じます」

(昭和天皇)
「本土決戦と言うけれど、一番大事な九十九里浜の防衛も出来ておらず、また決戦師団の武装すら不充分であって、これが充実は九月中旬以降になるという。
飛行機の増産も思うようにはいっていない。
いつも計画に実行が伴わない。
これでどうして戦争に勝つことができるか。
もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、それらの者は忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。
しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時期と思う。
明治天皇の三国干渉の際のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する。

『終戦史録』第2、第3、第4、第5巻 外務省編(北洋社)1977

引用元:竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏』(文藝春秋)P.274より



前例にない、天皇みずからが招集された御前会議が始まったのは、1945年(昭和20)8月14日10時50分頃である。異例の御前会議(最高指導者会議構成員と閣僚および平沼枢密院議長)で天皇は二度目の聖断を下した。
このときの天皇の言葉は、周知のところだが、ここでそれを省略するわけにはいかない。
最も真に近いという下村宏国相の記録では次のごとくである。

鈴木首相が一同を前にその後の経過と、閣議では一致が得られなかったことを報告し、
「ここで重ねて聖断をわずらわし奉るのは罪軽からずと存じまするが、この席において反対意見ある者より親しくお聞とりの上、重ねて何分の御聖断を仰ぎたく存じます」

天皇が立ち上がった。
「外に別段意見の発言が無ければ私の考を述べる。
反対論の意見はそれぞれ能く聞いたが私の考は此前申したことに変りはない。
私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上戦争を継続することは無理だと考へる。
国体問題に就て色々と疑義があると云うことであるが、私は此回答文の文意を通じて先方は相当好意を持って居るものと解釈する。
先方の態度に一抹の不安があると云ふのも一応は尤もだが私はさう疑ひたくない。
要は我国民全体の信念と覚悟の問題であると思ふから、此際先方の申入を受諾してもよろしいと考へる。
どうか皆もそさう考へて貰ひたい。
更に陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領と云う様なことは誠に耐え難いことで夫等の心持は私には良く分かる。
しかし自分は如何になろうとも万民の生命を助けたい
此上戦争を続けては結局我邦が全く焦土となり万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍び難い。
祖宗の霊にお応へが出来ない。
和平の手段によるとしても素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは当然ではあるが、日本が全く無くなるといふ結果にくらべて、少しでも種子が残りさへすれば更に又復興と云ふ光明も考へられる。
私は明治大帝が涙を呑んで思い切られたる三国干渉当時のご苦衷をしのび、此際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う。
今日まで戦場に在て陣没し、或は殉職して非命に斃れたる者、又其遺族を思うときは悲嘆に堪へぬ次第である
また戦傷を負い戦災を蒙り家業を失ひたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。
此際私としてなすべき事があれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、私はいつでも「マイク」の前に立つ。
一般国民には今まで何も知らせずに居ったのであるから、突然此決定を聞く場合動揺も甚だしいであろう。
陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう。
この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して、陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。
必要あらば自分が親しく説き諭してもかまはない。
此際詔書を出す必要もあらうから政府は早速其起案をしてもらひたい。
以上は私の考えである。」

(下村海南(宏)『終戦記』1948年、鎌倉文庫150~151ページ)


聖断の声が流れ、呪縛空間は慟哭した。それは一月半たってもつづいた。
下村の手記には、こうある。
「御諚を承っているうちに期せずしてここにかしこに悌泣の声が次第に高まってきた。御諚のほどに惻々胸を打たれ、たとえ一身はいかにあろうとも国は焦土と化し国民を戦火に失い、何んとして祖宗の霊にこたへんといふ心持をのべらるゝに至り、感激の涙はとめ度がなくなった。
 <中略>
一同席を立ちもあへず、長い長い地下道をよぎる間も、次で自動車の中も首相官邸に引き上げても、溜りの間にも、閣議の席にも、思い出してはしゃくり上げ涙が止め度なく流れる。

(下村海南(宏)『終戦記』1948年、鎌倉文庫P.152)

引用元:升味準之輔『昭和天皇とその時代』(山川出版社)P.211-212
引用元:竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏』(文藝春秋)


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 <「この二度の御聖断を読むと、昭和天皇が何を考えておられたかがよく分かります。
「自分は如何になろうとも万民の生命を助けたい」
このお言葉どおり、昭和天皇は以前からご自分の命はどうなろうとも終戦を、という御意志を持っておられました。ここで明確に閣僚にそのお気持ちを仰ったことにより皆の号泣に繋がったのだと思います。
そして、「耐え難きを耐え・・・」のことですが、
「私は明治大帝が涙を呑んで思い切られたる三国干渉当時のご苦衷をしのび、此際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う。
この抜粋した部分から昭和天皇の御心が分かるかと思います。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」
このお言葉にはこのような深い意味があるのです。


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( '灬' )
 <「戦時中の内閣がもっと早く戦争終結の御聖断の機会を作れば、ここまで日本が空襲を受けることもなかったでしょう。
また、アメリカに原爆投下の機会をわざわざ提供することも無かったでしょう。
この悲惨な戦争の記録を私たちは心に留め、今日という日に反戦の誓いを新たにしなければなりません。
たらればを言ったらキリのない戦争ではありましたが、日本は未だ復興していません。
心の復興です。
GHQの洗脳工作が解けずに自虐史観を大事に持ち、朝日新聞のような偏向マスコミを有難がり、日本の生命線である集団的自衛権に反対する左派市民・プロ市民・外国人スパイ・団塊世代の学生運動経験者による反戦運動・・・
本当にひどい有様です。


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 <「国民の多くは「抑止力」の意味も分かっておらず、国防への関心が無さすぎです。
私たちの子どもの未来が危うくなっています。
奇妙な平和運動を外国人のスパイが扇動していることも忘れてはなりません。
真に平和を願う者は、軽々しく「平和」を口にしないものです。
最後の海軍大臣であった米内光政が、「日本が本当に復興するまで200年」と語ったそうです。
この「本当に」の意味は、「日本人の精神」だったのではないでしょうか。

日本人の精神が海外でも褒められることは少なくないですが、その反面かなり自虐的な一面を持っています。GHQによる洗脳が解けていないからです。
日本が開国してから第二次大戦が終結するまでの歴史、植民地政策もなく、慰安婦の強制もなく、もちろん大虐殺も侵略もしていない、という真実を我々はしっかりと認識すべきなのです。
そして、反日的な中韓に向かって「デタラメな歴史を語るな!」と証拠を提示してはっきり言いましょう。
中韓米の捏造歴史戦に負けずに、子供達が日本人であることを誇りに思う時代を取り戻さなければなりません。
それを取り戻すのは私たちの世代にかかっていると思っています。

第二次世界大戦で亡くなられた方々の御霊安らかならんことを祈ります。