日除け帽子を被った幼い男の子が歩いている。持っていたバケツに手を入れ、オタマジャクシをすくい取っては、思い切り地面に叩きつけている。地面が死骸で赤く染まるたびに歓声を上げるその子は弟の珀也だ。 四、五年前にそんな夢を見た。
大阪で生まれ育ち、終戦の年に小学校へ上がった私には、三つ年下の弟がいた。食糧事情が悪く、母の乳の出もよくなかったためか、弟は虚弱だった。
案じた母はお金を工面して、ときどき農家で鶏卵を分けてもらった。一個の卵を割り、弟は黄身を私は白身をご飯にかけた。駄々をこねて母を困らせた記憶はないから、弟は体が弱くてかわいそうと、子ども心にも納得していたのだろう。
家族に労(いた)われていた弟なのに、終戦の年の梅雨に腸炎で亡くなった。朝ごはんの時いくら母が起こしても、ぐにゃぐにゃと崩れ落ちてしまう。大事にいたるとは思ってもいなかった母は、「なんでやろう、この子おかしいわ」と笑っていた。
病院へは、肺結核のために兵役を免れていた木彫家の父が連れていった。だが戦争末期のことで薬はなく、医者もほとんどが疎開してしまっていた。
「なんとかなりませんか」
父は必死ですがったが、何の治療も受けられなかった。
弟が死んだ直接の原因はキュウリだった。亡くなる三日前、ひもじさのあまり私とふたり、母の目を盗み、台所の隅にあったのを塩をつけて生で食べた。私はなんともないのに、胃腸の弱い弟がやられてしまった。それ以来わが家の食卓に生のキュウリが出ることはなかった。
我が家に金がなかったのか、葬儀屋も疎開してしまっていたのか、幼かった私には分からないが、告別式も出してやれなかった。弟の遺骸は父がリヤカーで火葬場へ運んだ。焼き上がるのを待っていると、
「あんた、今日でよろしおましたで」
と老婆に声をかけられた。
「きのうまでは、ここの焼き場でも仏さんが山積みで……」
数日前、大阪市内に大空襲があった。今の東大阪市にあった自宅の窓までが、赤く染まっていたのを覚えている。
幼かった私には、弟の臨終に際しての鮮烈な悲しみの記憶はない。ただ隣室にいた私のところに、「珀也が死んでしもうた」と母が泣きながら入ってきたのはよく覚えている。
珀也という名前は、父の木彫の師が中国の書物から採って、付けてくれたらしい。
「はじめから、あんな戒名みたいな名前つけるさかい、はよ死んだんや」
母は理不尽なことを言ったが、かわいい盛りの子を失くした女親の気持ちは、分からぬでもない。
弟のことを書くにあたり、過去帳を調べた。すると戒名も「釈珀也」になっている。本名がそのまま戒名になったのには、どんないきさつがあったのか、父母ともにいない今となっては、確かめようもない。だが、この世での生が短かった弟らしい戒名だと思う。
浮世の風に吹かれまくり、毎日を必死に生きてきた私は、弟の死を自分の身に引きつけて、それほど切実に考えることもなかった。ところが、古希になって数年がすぎた頃に冒頭の夢を見た。
これについては身に覚えがある。
弟が亡くなる数か月前に、オタマジャクシを捕りに連れていった。私は捕ったそれを地面に叩きつけ、兄からの命令として、「お前もやれ」と促した。弟は言われた通りにやり、「きゃあ、きゃあ」と歓声をあげた。
確かカエルの血は青いと習ったから、赤く染まっていたのは、つぶれて腸(わた)が出ていたのだろう。それとも私の記憶違いだろうか。
いずれにしても、そのわずか後に逝ってしまうことになるいたいけな子に、むごい殺生をさせてしまったと口の中が苦くなった。また私自身、いくら無明(むみょう)な子どもだったとはいえ、なぜあんな事をしたのかと後悔した。
夢をきっかけにして、しきりに弟のことを想うようになった。
同じように生のキュウリを食べたのに、兄の私は生き延び、弟だけが死んでしまった。その後、私はひとり子として両親のあり余る愛情を受けて育ち、玉子かけご飯なら何杯も食べられる豊かで平和な世の中を生きることができた。少しだとはいえ、家を含めて親の残してくれたものを独り占めにした。
このままでは申し訳ない気がする。そこで父に教えてもらった木彫りの技術を生かして、三年ほど前に白檀(びゃくだん)で身の丈十センチほどのお地蔵さんを弟のために彫った。仏壇に納め、折あるごとに庭の花を供え手を合わせている。ついでにと言えば罰が当たるが、オタマジャクシにも手を合わせ謝っている。