三十五年ほど前の夏。小学生の息子ふたりを連れて、母の兄の家へ泊まりにいった。商社を勤め上げた伯父は、老後を郷里の和歌山の田舎で送っていた。初めて訪れる伯父の家は、老夫婦が住むには十分な広さの二階建てで、十坪足らずの和風の前庭がよく手入れされていた.

 

 翌る日、伯父の次女の明子がやって来た。明子は私より六つ年下の三十六歳で、他にきょうだいは千鶴子という姉がいる。明子に会うのは十数年ぶりだった。派手な服装と愛嬌のあるおかめ顔は昔どおりだが、顔色が青みがかって艶がない。心臓が少し悪いらしい。

 

「お母ちゃん、これ。あの人から」

 お茶を飲んで一息いれた明子が四角い封筒を渡した。伯母は後で「きょうは八十万入ってたわ」と言った。里帰りの度にそんな大金を持たせる羽振りのいいあの人とは、サラ金業者で暴力団の組長なのだ。

 

 明子は伯父がよそでつくった子だ。遠縁の家に預けておいたが、可愛いがられていなかったようで、「あれでは、明子ちゃんが余りにもかわいそう」と訴える人がいて、伯父は伯母に幾重にも頭をさげ、九歳だった明子を引き取った。

 

 実は姉の千鶴子も伯父の不行跡の産物だが、実子のできなかった伯母は、赤ん坊の時に引き取って慈しみ大事に育てた。千鶴子は器量よしで聡明でもあったからか、義理の母娘の関係は生涯を通して良好だった。

 

 伯父は生前よく伯母に冗談を言っていた。

「おれが浮気をしたおかげで、お前も千鶴子みたいなええ子がでけた」

 伯父の死後、伯母は、「ほんまに、お父ちゃん、ええ子、遺してくれたわ」と本気で感謝していたものだ。

 

 伯父の家に引き取られた時、明子はもう小学校の四年生だったし、姉ほどには器量よしでも聡明でもなかった。伯母がよほどの人格者でもない限り、二人の間が上手くいくはずがない。明子は高校二年生のとき家出をし、後は水商売の世界に生きた。彼女は伯父に似て、当意即妙に面白いことを言って笑わせたり、気風のいいところがあるので、器量はよくなくても、その世界で充分にやっていけたのだろう。

 

 パトロンがついたりして羽振りのいい時には、宝石の装身具などを伯母への手土産にして姿を現した。ところが伯父が、「あいつ、またおれへんねん」と嘆くように、とつぜん音信を絶ってしまう。そんなことをくり返した。

 

 乳幼児期に大人の愛情を受けずに育つと、周りの者と、ひいては社会とコンタクトをとるのが苦手になり、うまく意思の疎通がはかれないという。その結果、男性の場合には暴力行為におよび、女性だと、明子のように全てから逃げ出し、逐電してしまうケースがままあるらしい。

 

 和歌山の家で明子に会った時、伯父は「今度は籍、入ってんねんと嬉しそうだった。明子は組長と正式に結婚していて、彼の十一歳になるひとり息子も彼女によく懐いていた。伯父にすれば、千鶴子の方は早くから結婚していたので、(明子もこれで何とか尻が落ち着くだろう。相手が誰であれ、ひと安心)と安堵していたのではないか。

 

 明子は帰りぎわに、私の小学生の息子たちに五千円もの小遣いをくれた。後日、お礼に自作の裸婦のレリーフ(板彫り)を送った。夫である組長は「これは、俺の室に掛けておく」といたく気に入り、ぜひ遊びに来てもらってくれ、と連絡を受けた。

 

 ご好意を無にしては悪い、と思いながら一年が過ぎた。

 ある日、朝刊を広げた私は目を見張った。Y組傘下の組長が、他の組のチンピラに喫茶店で射殺されたというのだ。被害者の住所と氏名に覚えがある。住所録をくってみる。やはりレリーフを送った先だ。

 

 慌てて伯父に電話をした。ところが明子は三か月前にまたいなくなっているとのことだ。組長が、息子には立派な教育を受けさせたいと、この四月に岡山の名門私立中学校へ入れたらしい。

「明子は寮に移る息子と引き裂かれて、嫌気がさしたのかなあ」

 この時すでにガンに冒されていたらしい伯父は、ため息をついた。伯父は翌年の夏に逝き、伯母も三年後に亡くなった。

 

 私は伯父や伯母の法要で千鶴子と顔を会わす度に、「明ちゃんはどうしてる」と聞いた。伯母が亡くなった後で、千鶴子が私に打ち明けたのだが、伯父が亡くなって一年後に明子から実家に電話があった。伯父の死を知り、「線香を上げに帰る」と言ったが、伯母が「もう、ええ!」と激しく電話を切ったという。

 

 その後も明子は、大阪に住む姉の前に現れたり、消息を絶ったりをくり返した。その間に子どものある人と同棲したこともあるらしい。組長の息子は無事に成人をして、結婚相手を連れて彼女に挨拶にきたともいう。可愛がってもらった記憶があったからだろう。明子は恵まれなかった自身の子ども時代の体験からか、母親のない子には、ひとしおの思い入れがあったに違いない。だがなぜ、少しぐらいの困難なこと嫌なことは辛抱して、一つ所に留まる努力をすることができなかったのだろう。

 

「もう二年ほども、明子からは何の連絡もないわ。名古屋に一番仲のええ友達がおるさかい、もし死んでたら、知らせてくれると思うねんけどなあ」と千鶴子が声をくぐもらせていたのが五年ほど前のことだった。

 

 そして一年後の暮れ。

 千鶴子から明子の死を報せる喪中はがきが届いた。

 千鶴子にお悔やみの電話をした。明子は九月に六十十八歳で亡くなっていた。膵臓ガンだった。健康的ではなかったろう生活が、早めの死の原因になったのかもしれない。

 

 亡くなる三月前に「姉ちゃん、もうあかんわ」と名古屋から電話をしてきたという。

 千鶴子は妹を大阪の病院に入れてやった。「いとこ達に会うか」と聞くと、「いや、誰にも会いとうない」と言って死んでいったという。千鶴子が最後まで看取ってやり、事後の処置も全部した。「それはそれはみすぼらしいアパートの一室が、明子の終の棲家だった」と千鶴子から聞いた。

 

 同じように伯父が外でつくった子どもなのに、姉の千鶴子は早くに引き取られ、幸せな環境で育った。また、良き配偶者に恵まれ、三人までの立派な男の子を得た。明子にすれば、内心では千鶴子に複雑な思いがあったかもしれない。それでも最後に、「もう、あかんわ」と電話する相手は千鶴子しかいなかったのだ。

 私は孤独で寂しかったであろう明子の生涯を想った。