浪速っ子だった私は、終戦のあくる年から二年間ほど、市電の玉造停留所の近くに住んだ。
私たち子どもはよく線路に五寸釘を置いて遊んだ。轢かれるときの熱で焼きが入るのだろう。研ぐとナイフになる。そんな悪がき仲間の一人がある日、走っている電車に投石した。急停車して飛び出してきた車掌に、私も一緒に追いかけられた。
小学校の三年生の時に引っ越すが、そこも停留所の近くだった。南北に走る堺筋線と東西の千日前線が、日本橋一丁目で交差していたが、今度の家もそこから五分ほどで、いま国立文楽劇場になっている近くだった。
引っ越したのが三学期の始めだったので、学年の区切りまではと、千日前線で東へ三駅乗って元の学校へ通った。まだ戦後の混乱期なので、下校の時刻でも車内は混んでいる。大人たちにもみくちゃにされて、私の学生帽がくるくる回ったものだ。
ある日、必死の思いで電車から降りると、向かいの線路で人だかりがしている。近づいてみると、二台の車両をつないでいる連結器に車掌が指を挟まれていた。おじさんやお兄さんたちは、力を合わせ声を合わせて、それぞれの車両を反対の方向へ押してみた。が、そんなことで連結器は外れない。
仕方なく運転手が何かのハンドルを回した。挟まれている車掌の指に両側からぐっと圧力がかかってから「プシュー」という音ともに外れた。挟まれていたのは左の人さし指で、土生姜のように膨れている。
車掌はその指を上に突き立て、手首を右の掌で支 え、交差点の角にあった乗務員の詰め所めがけて必死の形相で駆け出した。首からかけた蝦蟇口のような大きなカバンが腹の前で踊っていた。
新しい学年が始まると、堺筋線の線路を渡り、地元の学校へ通い出した。当時は大人が誘導してくれるわけでもなく、信号のないところを児童が各々、勝手に渡るのだから危険だったはずだが、誰も当たり前のことのように思っていた。そんな時代だったのだろう。
新しくできた級友の一人に岸田君がいた。私の家の裏手にある電気店の息子で、お父さんは社会党の市会議員でもあり、よく選挙運動の演説が聞こえていた。だが、岸田君自身は授業中もそうでない時もいたって無口だった。その岸田君が、クラスで飼っていたウサギの一匹が死んだ時には、手放しで「オイ、オイ」号泣した。
二学期の終わり近くだった。担任の先生が、風邪で数日休んでいる岸田君に渡すようにと、私にプリントをことづけた。帰りに寄ってみると、岸田君はその日の昼から起きだしたそうで、「明日から行かせよう思うてましてん。ちょっとだけでええから、上がっていってやって」とお母さんが勧めてくれた。
同じ一人っ子でも岸田君はきれいな個室をもらっている。三畳と六畳の二間に親子三人で寝起きしている私にはとても羨ましかった。
「ウサギはみな、元気にしてるで」と言いながら、私はことづかったプリントを渡した。そこへお菓子を運んできたお母さんは、私や私の家族について当たり障りのないことを訊いた後で言った。
「この子が、お腹にいるとき、私が病気してしもうて、あんまり食べられへんかったせいか、こんなぼやーっとした子がでけてしもうて……」。それを聞いても、岸田君はいつものようにこにこしてるだけだった。
一週間がたった。
「えらいこっちゃ!」
夕方近く、近所の友達が私の家に駆け込んできた。岸田君が市電に轢かれたというのだ。
慌てて飛んでいったが、騒ぎはおさまった後なのか人だかりはなかった。だが線路のかたわらに、すっぽりと筵に被われた小さな物が横たえられている。私は足がふるえて動けなくなった。家に帰ってからも気になり、それから何度も見にいった。日が暮れて冷え冷えとしてきても、岸田君はなぜかそのままに置かれていた。検死のことなどがあり、家族が勝手に動かせなかったのだろうが、子どもだった私は「なんでやねん。いつまでも可愛そうやんか」とやきもきした。
夕刊の配達がまだなかった頃なので、岸田君くんはお母さんの言いつけで買いに行こうとして、横切った線路に下駄を取られたらしい。そんなもの、ほって置いて逃げたらいいのにと思うが、本人はとっさのことで慌ててしまったのだろう。
二日後にお葬式が行われ、クラスの皆と参列した。「最後のお別れ」と棺のふたが取られえたとき、いつもにこにこしていた岸田くんの顔には、太くて白い包帯が隙間なく巻かれていた。
その姿が今も忘れられない。