先ほど、友人(音楽療法時代の)と34分、話した。と言っても、電話で。私達は、変わらなければ成らない。それは、総ての原因は自分の中に在り、他者責任をして居る限り、何も変わらないという事を強く言った。また、私は友人に、「音楽を聴くと良いよ」と言った。一時期、「音楽療法は人を治さない」という反抗的な論文を送った自分だったが、何も意地を張って音楽療法を否定する気も段々起きなくなって来た。また、私はPCのデータが吹っ飛んだので、その友人に何か在ったら論文を送って貰う事を提案した。

何を思いついたか、音楽は「人を変える」事に特化して居ると思い、何故かタイミング的に彼女から電話が在ったのだが、彼女がちゃんと学校を出て居るという点で、やはり音楽療法をやって行く様にと私は言った。持ってる物は無駄にしてはいけないし、いざとなったら捨てる事も出来るのだから。

KEITAというアーティストの音楽を聴いて居て、私は急に、自分が出来る事を思いついた感じがした。「人を楽しませる事」その事、1点のみだ。私は人を救わない。また人を救う人は、反対に人を平気で傷つける。その事に気付いてから、何か自分の出来る事は無いか探して居た。

変な話だが、音楽を聴いて居る時、浮かぶ人物と言うのはやはりその歌とリンクして居る様な感じがする。他人が想ってる事、自分が想ってる事 その事がリンクした時初めて、音楽というのは成り立つのでは無いかと思った。


総てを曝け出すつもりで、自分はこの日記を書いて居る事も言った。そして、「初心」を忘れずに生きて行く事を、伝えた。これは、最初「基礎」が大事だと思った時、丁度東原亜希さんのブログを読んで居て、リンクから彼女の夫の井上康生さんのHPを見て、「初心」という言葉を見た時、これだと思った。総て失敗するのは自己責任、他者責任してもそれは全部自分に返って来る事を言った。仕事や人間関係で、大きな失敗をした事が無い人は、他者批判する事が大好きな様だ。残念ながら、私はこういう人達と付き合わない。何故なら、私が付き合いたい人と言うのは、光が当たらない人達が殆んどだからだ。そしてそういう人間が、音楽療法の時の友人に多いのが、私には解るので現在(今)でも付き合わせて貰って居る。というより、話が通じない。何故なら、言葉を交わさなくても解る相手というのが、音楽や周波数を媒介とするこの療法でしか、無いからで在る。

色々な想いは在るが、私は会った総ての人に、自分がやって来た事を言って居る。勿論、現在(今)の人間関係も言ってるし、隠して何の意味が在る?

人には、言いたくない事も在る。そして、言わない方が良い事も在る。その立場を解った上で、行動したい。それは、正直に言う事は何も損する事でも無いし、いちいち気にしてたら生きてる意味等無いからだ。生きる事は楽しむ事で在り、それ以外は何も無い。苦しむ事が生きる事なら、それは自己満足に過ぎない。この意味が、解ってくれる人は、たった1人だろう…

私は、夜を楽しむ事にした。昔は夜活動してたな、と想い出すと、何でも無い。家族は居るが皆自立して居る。あまり気にせず楽しむ事に従事する。