
平原 綾香 何だか自分に似てると思う

今日食べに行った五右衛門 サラダetc

海老とからすみのトマトクリーム

チョコレートケーキ

サラダらしい 雑誌から
今日、(ってかもう昨日か)考えて居た事
「個性」って何だろうって事
自分の個性を活かしきれないと人は倒れる
今日自分の中で思ったのは 私は何度も蒼井優さんにふれているけれど
彼女は「個性がない所が個性だ」と言って居た。気質が似ている(と言っては失礼かもしれないが)私は彼女を観察するうち 彼女は自尊心を余り気にして居ないみたいだけれど私は自尊心を最も大事にする事が 解った。
此処に、大切な事を書いて置こうと思う。
「1番」を目指すと、「個性」は無くなる。それは、芸術に置いて在っては成らぬ事で在る。友達は、私のピアノを「1番」だと高く評価してくれた。だけれども それは「個性」が無い事だと思った。だったら「個性」って何だろうと思う。色々な表現方法が在る。
自分が自分を嫌って居るうちは、花は咲かない。また他人も視ない 視て視ぬ振りをする 近づけないと 思うのだろう。そういう事が私の観察から解った事だった。芸術関係をやって行きたい私としてはその「個性」がどういう風に人に伝わるか という事が主眼だった。人は何故1番に成りたがるのだろう…
世界に一つだけの花 じゃないけれど突き詰めれば個性を大事にしていると1番に成れないし、1番に成れないって事は逆の意味で私は個性が引き立つと思う。そんな事どうでも良いと思う人も居るかもしれないが、音楽療法で無機質な格好で音楽をやって居た私はつまらないなぁと思って居た。楽しい事も在ったがなんというか、型にはまった事をやるのが好きじゃないので。
ネイル、香水(香水は駄目だと思うが)、服装など…別に音楽療法に役に立てても私は良いのだと思う。むしろ、こういう事をやるべきなのだ。自分で自分を分析出来るもので在れば、カラーチャート等を活用して発達段階の表を作ってみても良いのでは無いのでは無いか。音楽療法の学会の先生が、(評議員の)若い人が多いのは、もう固定観念から抜け出さないといけないと日野原先生は気付いて居るからで在る。これは「淋病マヤズム」と言う、動くに動けない体質を持った人達の事で在る。私は「結核マヤズム」で在るから、瞬時に物事に移る姿勢が在る。
2番、3番を恐れる事無かれ。それは、貴方の「個性」が引き出されるという事で在る。私は高校の頃、成績が発表されるという事が在って、余り良くない方だったのだけれど、侮辱した人には言い返したし、別に後はどうなっても構わない。ただ、そういうやり方が良いかどうかは解らない。総て責任を持つという姿勢でやるなら構わないし、なんか人を見下す人は結局見下され返すという悪循環に陥っている。同種は同種で癒される。決闘で在れ何で在れ、戦う事を望んだ者達が集団を作りだし、それは現実逃避には成らない。現実逃避をしても良い事は無い。後悔を産み出すだけだ。その現実逃避は一種の無責任で在る。
高校時代、私は大いに苦しんだ。勉強が出来る出来ないの差は当たり前だけれど、何せ親が死にそうな瞬間を見た私は、もう此処では無い別の世界に行きたいと思って居た。祖父は私を隔離した。父親にも合わせて貰えず、母も病院に入院する…男に縋るしか無かった。その携帯電話も取り上げられ、私は居場所を失って行った。そして心が無くなって行った。
心が無くなるという事は傷を付けられても心臓が無いのだから、意味が無いのと同じ事で在る。人間は、心臓と脳で生きている。心が無いという症例は、持って産まれた気質、そして本人と違う事をさせられるという躾の在り方、教育方法が間違って居るからで在る。それを、私は学院時代にホメオパシーを猛烈に勉強したから解った事だが、音楽療法で心が無い人が現れた時、多分扱える人間はごく1部の人間に成るだろう。
つらつら書いてしまったが、私の好きな人は何をして居るのだろうか。私は、お見合いはしない。自分で人を選んで行こうと思う。