昨日は、色々語りました。
自分の中で気付いて居た事を、言われ、結構深く悩みましたが それはそれで良いと思える様に成りました。
私が思うのは、なんだか自分は人の事に巻き込まれる事があると言う事でした。
色々相手から言われる時、その言って居る相手に実は裏の行動が在り
私はそれが凄く嫌なのです。
自分の中にある、真面目な面、また不真面目な面に対し、また完璧主義で在りながら、どんなに努力を続けても色々言われる事が在り
それが、実は言ってくる相手にとっては、彼氏彼女とうまく行かなかったり、自分の仕事がうまくいかなかったりするせいで私に攻撃して来るという事が在るという事がたた 在りました
だいたい物事がうまくいかなかったのは、自分の責任です。考え方によって変わりますが、人のせいにしても結局は自分の所に、最終的に戻って来るだけです。
人間が決めなくても、宇宙の原則はその様になって居ると私は思います。
私は何言われても構いません。ですが、その言って来る相手に対して心配の念が起こる様になりました。昨日色々言われたのは、自分の中の未解決な部分に対してですが、それは仲良しだから許される事であって初対面の人に対して許される行為では在りません。
友達として許せる行為で在れば良いですが、許せない場合関係を断つという事になります。
私が人間関係を色々変えると言うのは、こういう人間の無責任な残酷性から逃げたいという根本的な欲求が在るからだと思います。以前、男友達とも大喧嘩をしたり、その様な事を平気でした私にとっては、人間を深く見つめたいという思いもあると同時に、何故こんなに人間は残酷なのだろうと考える事がよく 在ります。
嫌がらせ、悪口は私にはもう通用しない手口ですが、性格や性質の事を否定される度に思うのは、自分は一体何の為に生きている、その言った相手と付き合っているのかと言う事です。楽しければ私は世の中何でも良いと思うのですが、その楽しみの裏には苦痛が在る事を知って居ます。ですが、私は何事も現実逃避というのがベースになっているので、その事を言われても変える事は出来ません。
以前、「現実を見ろよ」と言う事を言われた事が在りますが、「現実」とは何なのでしょうか。それを私は説明して欲しいと思います。
半年前の日記に書いた事が在るのですが、現実とは、人によって違うのです。それは、1人1人違うという事です。特に、病におかされた人にとっては、現実とは そんなものは必要と無くなります。病とは、常に死と隣り合わせに在り、病人では無い人がその病人の気持ちを理解する事は、基本的に在りません。ですが、理解しようとする心が大事なので在り、理解する前に手を引いてしまっては何も成らないでしょう。
病気の人の気持ちは、病気の人しか解りません。人の気持ちは、解る事等一生在り得ないのだとさえ私は思います。
こういう過去が、私が過去好きだった人に戻らない理由であり、ですが、彼らの事は大事にしようという心構えを作ってくれて居ます。悩みやコンプレックス、気に要らない事は在りますが、私は色々言われたら基本的に、反論する様にしています。それは、自分を想う為で在り、友達であれ、好きな人であれ、両親であれ私は私の生き方、性格、性質、思想、表現等 「自分を生きる」事がいかに難しいか 考えさせられる事が多いからです。
人との付き合い方も変わっていくのかもしれません。
そんな風な出来事を感じさせる昨日でした。
自分の中で気付いて居た事を、言われ、結構深く悩みましたが それはそれで良いと思える様に成りました。
私が思うのは、なんだか自分は人の事に巻き込まれる事があると言う事でした。
色々相手から言われる時、その言って居る相手に実は裏の行動が在り
私はそれが凄く嫌なのです。
自分の中にある、真面目な面、また不真面目な面に対し、また完璧主義で在りながら、どんなに努力を続けても色々言われる事が在り
それが、実は言ってくる相手にとっては、彼氏彼女とうまく行かなかったり、自分の仕事がうまくいかなかったりするせいで私に攻撃して来るという事が在るという事がたた 在りました
だいたい物事がうまくいかなかったのは、自分の責任です。考え方によって変わりますが、人のせいにしても結局は自分の所に、最終的に戻って来るだけです。
人間が決めなくても、宇宙の原則はその様になって居ると私は思います。
私は何言われても構いません。ですが、その言って来る相手に対して心配の念が起こる様になりました。昨日色々言われたのは、自分の中の未解決な部分に対してですが、それは仲良しだから許される事であって初対面の人に対して許される行為では在りません。
友達として許せる行為で在れば良いですが、許せない場合関係を断つという事になります。
私が人間関係を色々変えると言うのは、こういう人間の無責任な残酷性から逃げたいという根本的な欲求が在るからだと思います。以前、男友達とも大喧嘩をしたり、その様な事を平気でした私にとっては、人間を深く見つめたいという思いもあると同時に、何故こんなに人間は残酷なのだろうと考える事がよく 在ります。
嫌がらせ、悪口は私にはもう通用しない手口ですが、性格や性質の事を否定される度に思うのは、自分は一体何の為に生きている、その言った相手と付き合っているのかと言う事です。楽しければ私は世の中何でも良いと思うのですが、その楽しみの裏には苦痛が在る事を知って居ます。ですが、私は何事も現実逃避というのがベースになっているので、その事を言われても変える事は出来ません。
以前、「現実を見ろよ」と言う事を言われた事が在りますが、「現実」とは何なのでしょうか。それを私は説明して欲しいと思います。
半年前の日記に書いた事が在るのですが、現実とは、人によって違うのです。それは、1人1人違うという事です。特に、病におかされた人にとっては、現実とは そんなものは必要と無くなります。病とは、常に死と隣り合わせに在り、病人では無い人がその病人の気持ちを理解する事は、基本的に在りません。ですが、理解しようとする心が大事なので在り、理解する前に手を引いてしまっては何も成らないでしょう。
病気の人の気持ちは、病気の人しか解りません。人の気持ちは、解る事等一生在り得ないのだとさえ私は思います。
こういう過去が、私が過去好きだった人に戻らない理由であり、ですが、彼らの事は大事にしようという心構えを作ってくれて居ます。悩みやコンプレックス、気に要らない事は在りますが、私は色々言われたら基本的に、反論する様にしています。それは、自分を想う為で在り、友達であれ、好きな人であれ、両親であれ私は私の生き方、性格、性質、思想、表現等 「自分を生きる」事がいかに難しいか 考えさせられる事が多いからです。
人との付き合い方も変わっていくのかもしれません。
そんな風な出来事を感じさせる昨日でした。