ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・テキサス分裂、そして崩壊 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

テキサス州はあまりにも広大なため一つの「地区」になったことは歴史上ありませんでした。

 

1977年まではダラス、ヒューストン、サンアントニオは一つの地区でした。アマリロはそのずっと前から別の地区で、別のレスラーのクルーがサーキットしていました。

 

そのバランスが崩れたのは78年です。2月1日、サンアントニオのプロモーター、ジョー・ブランチャードはサウスウェストレスリングヘビー級王座決定トーナメントを挙行、息子のタリーを初代王者としました。エリックの息子たちを、俺の息子タリーがいるここサンアントニオで売り出すほど、俺たちはお人好しのバカじゃないぜといったところでしょう。

 

そのタリーは、5月12日、アマリロ地区のラボックへ遠征しています。これは、ブランチャード親子がアマリロ地区のファンク兄弟と近かった証左と思われます。

 

7月19日、ダラスのフリッツ・フォン・エリックは息子らを引き連れてサンアントニオで興行を打ちます。興行戦争の勃発です。ダラス=ヒューストン連合軍とサンアントニオ=アマリロ同盟軍のテキサス全面内戦かと思いきや、歴史は曲がりくねった道を歩みます。

 

10月19日のアマリロ大会を持って、ファンク兄弟はプロモート稼業から撤退、一介のレスラーに戻ります。アマリロ地区の運営はディック・マードック&ブラックジャック・マリガンに引き継がれます。ところが、マードック&マリガンもうまくいかず、79年9月22日のプエブロ大会を持って撤退しました。1年持っていません。あとを引き継いだのはリッキー・ロメロ&ジェリー・コザックでした。

 

そのロメロ&コザックは80年の4月からダラス地区と提携。つまり、指揮官が変わったアマリロは同盟軍から連合軍にクラ替えということになります。

 

異変は続きます。

 

80年8月8日、この日のヒューストン大会の熱戦譜を見てみましょう。

 

△ケリー・フォン・エリック対ティム・ブルックス△

 

○パク・ソン対ミスター・ヒト●

 

○エル・アルコン対ツイン・デビルI●

 

○チャボ・ゲレロ対ツイン・デビルII●

 

○チャボ・ゲレロ&エル・アルコン対ツイン・デビルズ●

 

○ジノ・ヘルナンデス対ドン・ダイアモンド●

 

○スタン・スタージャック対オックス・ベーカー●

 

この日は歴史の転換点と言えます。というのは、この日を持って、エリックの息子たちのヒューストン登場が終わるのです。レスラー達は分裂し、ダラス=ヒューストン双方に登場するのは、ジノ・ヘルナンデスに限られます。ジノが双方に出ているのは、双方に需要があったということです。

 

またチャボは、ロサンゼルス地区を引払い、この日からの登場でした。

 

年が明けて81年1月19日のフォートワース、ジノはケビン・フォン・エリックに敗れ、この試合を持ってダラス地区を離脱し、ヒューストン専属となりました。

 

8日前の11日、ダラスでドン・ダイアモンドを一蹴し鮮烈なる地区デビューを飾ったザ・グレート・カブキは証言します。

 

「ダラスの時代、ヒューストンには行かなかった」

 

ここでヒューストンはダラスと切れ、今度はサンアントニオとくっつきます。そしてジノとチャボとの間で、チャボが新日本から持ってきたNWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル王座を巡る抗争が始まります。83年にはヒューストンとサンアントニオは切れますが、ダラスと再合体したわけではありません。3分裂です。またアマリロはすでに定期興行ありませんでした。

 

えらいごちゃごちゃしていますね。ざっくりというと、常に対立していたのはダラスとサンアントニオで、ヒューストンとアマリロはその間で右往左往していた、これがテキサス内戦の構図です。

 

 

以下は後日談です。

 

内戦でテキサスが盛り上がればいいのですが、そうは問屋が卸しません。84年2月、WWFが全米侵攻を開始し、それに対抗してノースカロライナ州シャーロットのジム・クロケット・ジュニアも全米ツアーを始めます。全く同じ時期にデビッド・フォン・エリックが東京で客死するという痛ましい事件がありました。しかし、ダラス地区はクロケットと提携して凌ぎます。

 

86年2月20日、ダラス地区は更なる積極策に出ます。ダラス地区を仕切っていたフリッツ・フォン・エリックの「ワールドクラス(WCCW=World Class Championship Wrestling)」は、NWAアメリカンヘビー級選手権をWCWA世界ヘビー級に名称変更し、リック・ルードを初代王者に認定します。NWAも脱退です。団体名もWCWAに変えました。これは、WCWA自体が全米ツアーを行う構想を背景にしていました。テキサスから全米への宣戦布告です。

 

7月27日にはクロケットがダラスに乗り込んできて、ダスティ・ローデス対リック・フレアーのNWAを挙行、WCCWは同じ日にダラスの隣町、メスキートでブルーザー・ブロディ対アブドラ・ザ・ブッチャーを前面に押し出して対抗しました。

 

しかし、結局はWCWAの力はWWFやクロケット・プロ改めWCWに及びません。89年1月の動員数をみますと、14日インディアナ州ハモンドは550人、15日イリノイ州メルロウズパークは513人、14日イリノイ州シカゴは617人。20日にダラスに戻っても900人と惨憺たるものです。そして91年1月に崩壊し、ダラス発のプロレスはなくなりました。