グレート・アントニオはいかにして登場したか | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

力道山時代後期の1958年以降、金曜8時のプロレス中継は「ディズニーランド」との隔週が原則でした。61年3月3日、東京・品川公会堂で行われた日本人だけの興行は「力道山渡米壮行プロレス試合」と銘打たれました。外人レスラーなしのこの興行、メインはバトルロイヤルでした。

 

この直後、力道山は渡米したのでしょうが、どこで何していたか、ちょっとわかりません。海外での試合記録もないのです。まあ、それは今後の課題とさせて下さい。

 

力道山が不在の場合、興行は力道山抜きで行われるのが普通でした。しかし、この時、3月3日の品川から5月1日のワールドリーグ戦開幕まで、日本プロレス主催の興行は全く行われていないのです。

 

ここで興味が持たれるのは、3月、4月と、日本テレビがどうやってプロレス中継を維持したのか、ということです。

 

3月17日は、力道山&豊登対ロード・ブレアース&ラッキー・シモノビッチのアジアタッグ戦。これは、2月1日大阪府立体育館の録画でした。

 

3月31日は、力道山&豊登対ロード・ブレアース&ラッキー・シモノビッチのアジアタッグ戦。これは、2月5日東京・台東体育館の録画でした。

 

2週続けて同じカードですね。4月も同じようなメンバーでやったのかというと、そうでないから面白い。

 

4月14日は、大阪府立体育館から「小人国プロレス大会」。来日していたスカイ・ローローら6人のミゼットによる試合を中継しました。年配の方と話していると、スカイ・ローローをご存知の方がいて驚きますが、この時代に全国的な露出があったからなんですね。

 

 

4月28日は、台東体育館から「外人選手エキジビジョン 小人プロレス6人タッグ」。5月1日に開幕するワールドリーグ戦を控え、参加外人勢は4月27日、すでに来日していました。翌28日の昼間、神宮外苑の絵画館前でグレート・アントニオが4台連なったバスを引いたのは有名です。

 

 

その日の夜、アントニオはグレート東郷とともに、台東体育館を訪れ、ミゼットのリング上から挨拶していたのです。そしてその様子が全国生中継されていたのですね。この時、リングサイドには力道山がいました。そして・・・乱闘です。

 

ローローら6人のミゼットによる巡業はすでに3月25日から行われていました。招聘したのは日本プロレスではなく、玉井芳雄氏という三重・松坂在住のプロモーターでした。愛知県周辺の日本プロレスの興行だけではなく、小畑千代ら女子プロレスも手がけていました。つまり、ミゼット興行は日本プロレス主催ではなかったわけで、これが日本プロレスの中継枠を使って放映されていたのです。

 

しかしながら、自分の放映枠を他人に貸し、ローローのような優秀なタレントで注目を集めておいて、最後は自分が出向いて次のシリーズの宣伝を行う。力道山のビジネスセンスにはすごいものを感じます。