懐かしのエッセイ・・・ミル・マスカラス | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

1969年暮、当時私は小3だった。

 

ロサンゼルスからの馬場対フリッツ・フォン・エリックのインター戦の「宇宙中継」があった。その中でグレート小鹿がこの日マスカラスのもつUSヘビー級タイトルに小鹿が挑戦しタイトル奪取、というニュースが流れた。マスカラスの名前がテレビを通じて流れたのは初めてだったと思う。

 

リターンマッチは翌70年1月の予定であった。が、マスカラスは当日行われたバトルロイヤルで「負傷」した。ということで、代打のロッキー・ジョンソン(ザ・ロックの親父)がヒールの小鹿からタイトルを奪取した。これがロサンゼルスのファンの溜飲を下げた。当時ロスマットはアメリカでもメイン・テリトリーで、22人バトルロイヤルは年頭の恒例行事であった。ちなみにこの試合をもってマスカラスはロサンゼルス地区を去り、ダラス地区に移った。

 

71年初来日。このときの人気は凄いものがあった。週2回という過剰なるテレビ放送の影響か、プロレス人気が落ち気味だった時期である。しかし、マスカラスのおかげで一気に盛り返したかのようであった。来日第1戦は後楽園ホール、対戦相手は星野勘太郎である。星野は前年メキシコ、アメリカに遠征しており、ルチャも熟知している。星野の「受け」のよさもあって好試合となった。試合はロープ最上段からのフライング・ボディ・アタックでフィニッシュした。この試合は私のマスカラスベスト・バウトだ。

 

75年、マスカラスはニュー・ヨークにて新団体IWAの世界チャンピオンに認定され、ルー・テーズらと防衛戦を行った。この年は来日せず、私はちょっと寂しく感じたという記憶がある。このころの私は高校受験を前にしても日和らずプロレスに熱中していた中3生であった。

 

77年全日本プロレスにて再ブームが起こった。このシリーズからテーマソング「スカイ・ハイ」が使われ、入場テーマのさきがけとなった。最終戦は今はもうない両国の日大講堂で行われた。対ザ・デストロイヤー戦を私は観戦している。

 

夕方近く、タクシーを下りて会場入りするマスカラスに私は遭遇し、眼が合った。たちはだかる私に対して彼はたった一言「エクスキューズミー」。外人と、しかもマスカラスと話をした、と私は興奮したのを覚えている。そのタクシーに乗っていたのはマスカラス一人で、そのすぐ後ろのタクシーからはディック・スレーターとロン・バスが下りて来た。このあたりにも格の違いというものを感じた私は高校生であった。

 

この日のリングへの入場シーンは後に何回も流されたが、フィルムの中でファンによる騎馬にのったマスカラスにかかるオレンジ色の紙吹雪を投げたのは私だ(揉みくちゃになるマスカラスをペタペタさわっていたのが「猪木を書かせたら日本で2番目」の板坂剛氏である・・・本人の著書による)。

 

79年8月26日、マスカラスは伝説の「夢のオールスター戦」に出場、鶴田&藤波と組んでマサ斎藤&タイガー戸口(キム・ドク)&高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)組と対戦、メインの馬場&猪木対ブッチャー&シンと話題を二分したのだ。日本テレビ、テレビ朝日ともこの試合の中継はできなかったものの、「3分だけ」の約束でスポーツニュースで試合の模様は流された。お金がなくて見に行けなかった大学生の私は日本テレビ、テレビ朝日のスポーツニュースをはしごして見た、マスカラス&鶴田&藤波のトリプル・ドロップキックはいまだ脳裏に焼き付いている。

 

80年代に入ってからジャンプ力に翳りをみせ、試合も凡戦が多くなり、私の心も離れていった。とくに86年の東京都体育館での小林邦明戦は、貫祿とプライドだけで両者リングアウトにもちこみ大いに失望したのを覚えている。もう私は大学を卒業していた。

 

95年7月7日、両国国技館のWARの興行で私はもう見ることのないと思っていたマスカラスに出会った。ボブ・バックランド&ジミー・スヌーカをしたがえた6人タッグマッチだ。館内に響く「スカイ・ハイ」に私は理屈抜きで興奮した。その時の私の脳裏には彼を初めて知った、小学校以来の年月が走馬灯のように駆け巡った。「プロレス・ファンでいてよかった」リング上のマスカラスは体型が崩れ、昔のようには飛べない。でもプライドの高さと貫祿は十分伝わってきた。

 

プライドの高さ故にいろいろと損もしたであろう。しかしプライドを守りきったものにしかないものをマスカラスのなかに探す。私もそんな年齢だった。

 

(1996年頃に書いたものです)