ケネディ・ダラス・鉄の爪・・・ダラス地区というテリトリー | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

(ザ・グレート・カブキ)

 

 

1980年台半ばまで、アメリカのプロレス界には「テリトリー制」が敷かれていました。ほぼ1つの州に1人の統括プロモーターがいて、州内の主要都市を1週間をかけてサーキットしていくというものです。統括プロモーターは中核となる都市のプロモーターで、州内主要都市のプロモーターは別の人物である事が普通です。

 

「テリトリー制」がいつできたのか。1933年頃、ジム・ブローニンがニューヨーク州などが認定する世界王者だった頃にはほぼできていた、と申すしかありません。20年代、エド・ストラングラー・ルイス、トゥーツ・モント、ビリー・サンドウの「ゴールド・ダスト・トリオ」が、レスラーをグループ化してサーキットさせるようになった事、20年代から30年代にかけ全米各地で興行会社が旗揚げされた事で、その原型ができたと思われます。

 

当時、レスラーの移動は自動車ではなく、ましてや飛行機ではなく、鉄道が一般的でした。したがって、移動できる範囲にも制約があります。また、各州のアスレティック・コミッショナーの、プロモーターに対する許認可などの権限も強く、「テリトリー」は州単位となるのが自然な流れでした。

 

「テリトリー」は時の流れとともに変化します。例えば、ジョージア州サバンナは、ジョージア州アトランタのオフィスが仕切りましたが、ある時期から、ノースカロライナ州シャーロットのプロモーター、ジム・クロケット・シニアの勢力下となります。サバンナは、サウスカロライナ州との州境に近く、アトランタからよりもサウスカロライナ州からの方が行きやすいからです。

 

クロケット・シニアは戦後の段階では、ノースカロライナ州のみを「テリトリー」にしていました。グレート東郷が大山倍達や遠藤幸吉を引き連れてサーキットした52年には、クロケット・シニアの「テリトリー」は「ノースカロライナ地区」でした。そして、サウスカロライナ州、バージニア州、そしてジョージア州サバンナと領土を広げ、ジャイアント馬場がバロン・フォン・ラシクとPWF防衛戦を行った77年には「ミッドアトランティック地区」と呼ばれていました。「テリトリー」はこのように複数の州をまたがる場合もあります。WWEの前身、WWFは79年に、WWWFから改称されたものですが、そのWWWFは65年の段階で東部13州のうち、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、バージニア州を除く10州をほぼ勢力下に収めていました。

 

州をまたがる「テリトリー」もあれば、面積が広い場合、州内に2つのテリトリーができてしまう場合もあります。カリフォルニア州にはサンフランシスコ地区と、ロサンゼルス地区がありました。テキサス州には80年まで、ダラスを含む「テリトリー」とアマリロを中心とする「テリトリー」がありました。アマリロは広いテキサス州の北部にありますので、ダラスなどを中心にしても回りきれなかった、だから別の「テリトリー」になったのでしょう。

 

このテキサス州に内のテリトリーの分割・併合の歴史は複雑なので、ここでまとめておきます。

 

まず問題は、ダラスを含む「テリトリー」をどう呼ぶかです。普通、「○○地区」という場合、「○○」にはそのテリトリーの中心となる都市名が入ります。「テリトリー」内の各地区には、その中心都市「○○」からレスラーが派遣されます。

 

65年、ここで武者修行したアントニオ猪木は、ダラスではなく、ヒューストンでアパートを借りました。「テリトリー」内の各都市にはヒューストンから出撃していたのです。なぜヒューストンだったのか。一番大きな理由は、「テリトリー」の中心都市がここヒューストンだったからです。『プロレススーパースター列伝』では、ダラスが中心で、ボスはフリッツ・フォン・エリックのような書き方がされていましたよね。おそらく厳密さよりもわかりやすさを優先したのでしょう。

 

つまり、猪木が修行した時代のダラスを含む「テリトリー」は、ヒューストン地区というべきなのです。ここのボスは、モーリス・P・シゲールという人でした。シゲールは、ザ・マミーを出現させたり、大暴れするターザン・タイラーに対し、警官隊を出動させ、手錠で連行させるなどアイディアマンでした。

 

エリックはテキサス州の出身ですが、デビュー当時を除いて米北部やカナダで闘うことが主でした。その時代の対ボボ・ブラジル戦などのフィルムが68年11月から関東地区では「プロレス・アワー」で見ることができましたよね。

 

エリックのテキサスでの試合数が多くなるのは64年です。しかし、この時は、北部とテキサスを何度も往復しています。テキサスに定着するのが、65年の下半期からで、その直後、猪木が入ってきました。そしてエリックがダラスの実権を握るのが翌66年の夏です。キンジ渋谷によると、それまでのダラスのプロモーター、エド・マクレモアの病気に乗じて、ドサクサまみれの感もあったそうです。

 

同じ頃、ヒューストン地区統括プロモーターのシゲールも引退し、ヒューストンはポール・ボウシュに引き継がれます。マット上の主役はダラスもヒューストンもエリックです。エリックがヒューストンに参戦する場合、居住地であるダラスから行くことになります。エリックがダラスのプロモーターとなった66年夏以降、球場を用いたビッグマッチもダラス近郊で行われていますので、「テリトリー」の中心地はダラスと言ってよく、以後「テリトリー」は「ダラス地区」と呼ばれるべきでしょう。そしてエリックは「ダラス地区」統括プロモーターとして、ヒューストンのボウシュやサンアントニオのジョー・ブランチャードに選手を供給していきます。

 

この体制が崩れるのは、78年2月、ブランチャードがサウスウェスト・テレビ王座を創設した時からです。レスラーも独自にブッキングすることになります。「サンアントニオ地区」の誕生です。

 

この頃からダラスの中心は、ケビン、デビッドらエリックの息子たちになっていきますね。しかし、ヒューストンのボウシュはエリックの息子たちのプッシュに消極的だったようで、80年8月をもってエリックはヒューストンにレスラーを送らなくなります。「ヒューストン地区」の復活です。そしてダラス、ヒューストン、サンアントニオのリング上は別々の物語が進行していきます。81年1月、ダラスで変身デビューしたザ・グレート・カブキさんも証言しています。「ヒューストンには行かなかったよ」。

 

ここで、テキサスに4地区できてしまったかというとそうではありません。アマリロ地区が80年に崩壊していますので、やはり3地区なのです。以後、旧アマリロ地区には時々エリックや、無名のプロモーターがスポットで興行を開催しました。また、旧ダラス地区では、エリックがサンアントニオで興行を打ったり、ブランチャードがヒューストンで興行を打ったりと、戦国時代となります。

 

すでにアメリカでは、70年代後半の社会変動で、地方都市の経済的な困窮が進んでいて、プロレスが消えてしまった都市はアマリロなど多々ありました。「テリトリー」の崩壊はアマリロ地区にとどまりません。特にひどかったのはエドワード・ファーハット(ザ・シーク)のデトロイト&オハイオ地区です。デトロイトの興行停止は80年10月でした。

 

80年代に入ると、ファーハットの「テリトリー」だったオハイオ州シンシナチはノースカロライナ州のジム・クロケット・ジュニアが、同州コロンバスはジョージア州のオレー・アンダーソンが興行を打つようになりました。また、カリフォルニア州は、サンフランシスコはミネソタ州AWAのバーン・ガニアが、ロサンゼルスはニューヨーク州WWFのビンス・マクマホン・ジュニアに引き継がれます。「テリトリー制」は壊れつつありました。

 

そして84年にWWF(現WWE)が「テリトリー」の壁を破って全米で興行を打ち始め、クロケット・ジュニア、ガニアもテリトリーを越えて興行を開催し、これら一連の出来事が「テリトリー制」を終焉に導くことになります。そして80年代が終わる頃、米本土で「テリトリー」と言えるのは、オレゴン地区、テネシー地区だけといった状況でした。