(若かったですね、ブッチャー。脇の下の肉のタップンが常人並みです)
アブドラ・ザ・ブッチャーは1970年8月、日本プロレスに初来日しました。
初来日前は「辛うじて名前が知られている」存在でしたが、初戦(8月21日・東京・後楽園ホール)で目をみはる動きを見せました。そしてシリーズが始まると日に日にインパクトを増し、4週間後の最終戦(9月17日・東京・台東体育館)ではジャイアント馬場の持つインターナショナル選手権の挑戦者に抜擢されました。
シリーズ前、日プロが外人側エースと予定していたのはカール・ハイジンガーでした。最終戦にはハイジンガー&ジャッキー・ファーゴが馬場&アントニオ猪木に挑戦するインターナショナルタッグ選手権を内定していたくらいです。しかし、初戦を見て日プロは、エースはブッチャーと決めたのでしょう。
当時、ブッチャーは36年生まれとされました。日プロによる発表です。が、最近では41年に修正されています。なぜ、5歳も年長となるような発表をしたのでしょうか? 私は以下のように推測します。
41年だと38年生まれの馬場よりも年下になる。しかし、36年であれば年長となる。ブッチャーは「ヤングパワー」で売るタイプではないので、馬場の相手として「年下」では貫禄不足だ。ええい、年齢を5つ足してしまえ。そんなところでしょう。
アメリカでも年齢を足したり引いたり度々あります。若く見せる方が圧倒的に多いのですが。日本では、当時、馬場の相手は年上が圧倒的に多かったので、ブッチャーをエースとして使っていく以上、馬場より年長の方が切符が売りやすかった、当時の雰囲気を知るものとしてこれはうなずけるんです。
それまでブッチャーはカナダでの試合がほとんどでした。カナダ生まれなんです。そしてカナダでもヒールでした。
60年代まで、アメリカでは黒人はベビーフェイスであることがほぼ原則です。しかし、ベビーフェイスでありながら、陣営のトップに据えるということは殆どありませんでした。ベアキャット・ライトやボボ・ブラジル、アーニー・ラッドは例外です。ベビーフェイス側の副将として、愛想を振りまく、それが、60年代までのアメリカでの黒人の役割です。つまり、黒人がヒール側のトップとしてベビーフェイス側のエースに対峙するというような日本のような状況はありえなかったのです。というわけで、黒人選手が年齢を加えて発表するなんてことは、アメリカでは決してありえないわけです。ましてや、ブラックパワー軍団と地元エースの抗争、これは日本では度々ありましたが、アメリカではシャレになりません。差別はいけないことだとされながら、本音の部分ではなかなかなくなっていかない社会情勢から、そんな発想にはなりません。
ここにアメリカにおける黒人と、日本における黒人の違いが見えてきます。アメリカではアメリカ人(カナダ人)である前にまず黒人であり、日本では黒人である前にまず外人なんですね。