ニュージーランドと日本とのプロレス団体の関係を調べてみました。 | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

 

ニュージーランドの地図を思い浮かべてください。

 

大きな島が二つありますね。 地図で見て北にあるものをノースアイランド(北島)、南にあるものをサウスアイランド(南島)と呼ぶそうです。「そのまんまじゃねえか」。そうですね。首都ウェリントンがあるのは北島です。 

 

1971年、ニュージーランドにはSWA、CWA、IWAの3団体ありました。以下、あげてみます。 

 

SWA(South Pacific Wrestling Association) 

プロモーター:アーニー・ピンチェス 

エース:フランク・リパノビッチ(チェコ系) 

エリア:北島のオークランド中心 

スタイル:アメリカン・スタイル 

メモ:オーストラリアWCW(ジム・バーネット主宰)と提携し、WCWに来たアメリカのレスラーも回してもらっている。

 

CWA(Central Wrestling Association) 

プロモーター兼エース:ジョン・ダ・シルバ 

エリア:ウェリントンを中心に全国 

スタイル:ブリティッシュ・スタイル 

 

IWA(International Wrestling Association) 

プロモーター兼エース:スティーブ・リッカード 

エリア:全国。東南アジアにも進出。 

スタイル:不明、但しラウンド制を敷いている 

メモ:スティーブ・リッカード&ブルーノ・ベッカーの強力タッグで売る 

 

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さて、この3団体、71年には激しい興行戦争が行われました。戦前から戦中にかけてのこの国のエース、ロフティ・ブルームフィールド(Lofty Blomfield、1908/7/18生まれ)は、興行戦争の最中の1971年6月29日に亡くなりました。写真の方です。死の直前にも「かつてのように1団体でやれないものか」と嘆いていたそうです。 

 

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国内の複数の団体の中にアメリカン・スタイル、ブリティッシュ・スタイル双方があるのは隣国オーストラリアと同様です。オーストラリアではWCW(World Championship Wrestling)がアメリカン・スタイル、WWC(World Wrestling Corporation、ジョージ・ガーディナー主宰)がブリティッシュ・スタイルでした。この時代、アメリカン・スタイルをとっていたということは、アメリカのテリトリー制に組み込まれていたということです。 

 

オーストラリア、ニュージーランドはイギリスの旧植民地であり、政治的、社会的にイギリスとの関係が強い、しかしながら、太平洋を挟んだ隣国アメリカとの経済的、軍事的なつながりも強いわけで、米英両国の影響を受けたプロレス団体が存在したのもうなずけます。 

 

見方によっては、当時の我が国も同様です。日本プロレスはアメリカン・スタイル、国際プロレスはブリティッシュ・スタイルに位置付けることができます。

 

地図を見れば日本、オーストラリア、ニュージーランドは環太平洋諸国であり、その地政学的影響を与える国が米英両国だったということがプロレス団体の存在からも見えてくるということです。 

 

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日本との関係を見てみましょう。 

 

70年秋、スパイロス・アリオンの国際プロレス参戦がキャンセルされた事件は有名です。が、その時、ニュージーランドSWAのフランク・リパノビッチの来日もキャンセルされたことはあまり知られていません。アリオンのキャンセルは日本プロレスがオーストラリアWCWのジム・バーネットに手を回した結果です。ここでリパノビッチもキャンセルしたということは、SWAと繋がっていたバーネットが来日にストップをかけたということが考えられます。 

 

リパノビッチが来日していれば、国際プロレスとSWAにラインが出来たでしょうが、それはなりませんでした。それでは、と言うわけでしょうか。国際プロレスはニュージーランドIWAと結び、71年新春にデビル・ブッチャー(正体はスティーブ・リッカード)&ブルーノ・ベッカーの来日をみます。 

 

このリッカードという人は、提携先を変えることが好きなんでしょうか。69年には日本プロレスと提携し、5月、7月に馬場、猪木らを東南アジアに呼んでいます。そして71年ですね。

 

強力タッグのスティーブ・リッカード&ブルーノ・ベッカーがニュージーランドを空けたということはこの時期、ニュージーランドIWAはオフシーズンだったのでしょう。熾烈だった興行戦争は、彼らの帰国後に起こったことになりますね。 

 

73年5月、タイガー・ジェット・シンは新日本プロレスに強烈な乱入デビューを果たします。シンはリッカード対山本小鉄戦の最中に乱入したのでした。シンとリッカードは72年12月にはオーストラリアWCWでタッグを結成しています。つまりその段階で、オーストラリアWCWのニュージーランドの提携先はSWAからIWAに変わっていたことになります。 

 

マーク・ルーイン、キング・イヤウケアといえば70年代半ばの全日本プロレスの常連です。彼らは全日本のリングに上がっていない時、オーストラリアWCW、ニュージーランドIWAのリングに上がっていました。70年代半ば以降、この3団体でトライアングルができていたことは間違いありません。 

 

70年代半ばといえば、74年にジョン・ダ・シルバが全日本に来ています。シルバがどのルートできたのか、これは調べがついておらず、今後の課題とさせていただきます。