1971年3月2日、東京で日本プロレスと国際プロレスの興行戦争がありました。
日プロは蔵前国技館でジャイアント馬場&アントニオ猪木対ミル・マスカラス&スパイロス・アリオンのインターナショナルタッグ選手権。一点豪華主義でした。観衆は9000人。
一方の国プロは東京都体育館で、ラッシャー木村対ザ・?(アンジェロ・ポッフォ)の金網デスマッチ、マッドドッグとブッチャーのバション兄弟対サンダー杉山&グレート草津のAWA世界タッグ選手権、ビル・ミラー対マイティ井上の、3本立てです。観衆は3000人。
2日、東京で国プロが東京都体育館でビッグマッチをかますということはかなり前から分かっていて、それを知った日プロが蔵前を抑え、戦争を仕掛けたようなのです。 翌日のデイリースポーツは「日程をずらせばいいものを」と言う感じでこの興行戦争を批判的に報じております。が、社会の公器として、観客の意見も拾ってます。当時の両団体を取り巻く雰囲気を的確に伝えており、興味が持てます。以下、引用します。
<蔵前での声> 外神田の池田さん(57)は「迫力が違いますよ。第一、メンバーを見ても、若手から馬場までツブがそろっている。わざあり反則あり、それぞれ個性があって楽しませてくれる。国際?見ていてももどかしくて仕方ないんですよ。だからテレビでもあまり見たことがない」
<千駄ヶ谷での声> 「一緒に住んでいる両親が金網の張ってあるデスマッチを見たいというので子供を連れてきた。雑誌を見ても向こうの方が多いし、役者も揃っているみたいですな。宣伝も巧いです。国際プロは見るのがこれが三回目。デスマッチでなかったら国技館(日プロ)へ行っていたところです」板橋在住の金川政吉さん(28)
7年後、すでに日プロはなく、国プロもAWAとの提携を破棄していました。そんな頃、マスカラスはWWWFベビーフェイス陣営の一員として東部地区をサーキットしています。その辺の詳しいところはG Spirits vol.42に書いてございます。お持ちであればご参照ください。
で、面白いのが、71年3月の興行戦争でマスカラスとタッグを組んだアリオン、国際側にいたブッチャー・バションがヒール側にいるんですね。 こんなカードがあります。
1978年3月13日【ベヨンヌNJ】○ミル・マスカラス対スパイロス・アリオン●、反則
1978年3月14日【フィラデルフィアTV】○ミル・マスカラス対ブッチャー・バション●
当時のWWWF王者はベビーフェイス側のボブ・バックランドでした。バックランド対アリオンはMSGでも組まれましたが、バックランドとブッチャー・バションのシングル戦は組まれませんでした。ヒール陣営内の格の上ではアリオンが上だったようです。