ボボ・ブラジルの政治経済学・・・マクガークからワットへ | 続プロシタン通信

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プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

特にプロレスの場合顕著なんですが、すべからくプロスポーツでは、誰が仕切るかが勝敗に影響を与えます。

 

そもそもプロレスは職業的なレスリングです。当初において打撃はほとんどなく、フォールされれば終わりなので、ボクシングに比べれば身体的なダメージは大幅に少なく、毎日のように試合をすることは可能でした。

 

また、飛行機の時代以前は移動距離も限られていましたので、プロモーターの縄張りも自然発生的にできていきます。「火曜日の夜はレスリングだ」。これは覚えやすい。ある街での週1回の興行が定着していきます。だいたい1930年代前後のことですね。 

 

前回お話しした70年に戻りますと、ニューオリンズのプロモーターはレロイ・マクガークという人でした。マクガークはアマレス上がりで、白人(というより当時のアメリカは黒人がアマレスに参入できるような社会環境ではありませんでした)中心のジュニアヘビー級の攻防が興行の目玉でした。 

 

マクガークの本拠地はオクラホマ州のタルサです。ここからニューオリンズまで800キロ位あります。かつてここで闘っていたことがあるマティ鈴木さんに伺ったんですが「何しろマクガークのテリトリー(縄張り)は移動がきつくて大変だった」そうです。 

 

こんな話もあります。マクガークはNWA会員で、会員間でレスラーのトレードは日常茶飯事でした。同じメンバーだと観客に飽きられますし、レスラーにとってもいろいろテリトリーで闘うことは、地区ごとの色も違いますのでいい経験となります。テキサス州西部のアマリロを中心にニューメキシコ州、コロラド州南部までのテリトリーの統括プロモーターは74年当時、ドリーとテリーのファンクスでした。

 

新人だったスタン・ハンセンがこの地区での仕事がひと段落し他地区に移ろうという時期、ドリーに頼んだのが「オクラホマだけはやめてくれ」でした。移動のきつさはレスラーの中でも周知だったのです。しかしドリーは「そんなの関係ねえ」とハンセンをマクガークのもとに送ります。ところがそこで、大学時代の先輩だったフランク・グーディッシュ(ブルーザー・ブロディ)と出会い、意気投合し、このコンビが後のプロレス界を変えてしまうのですから、世の中わかりません。 

 

 

ハンセン&グーディッシュがオクラホマ地区で闘っていた75年、フロリダ地区からビル・ワットが入ってきました。入ってきたというよりも帰ってきたですね。ワットは若い頃、オクラホマ地区にいたことがありました。有名になったのは、その後、ニューヨークやサンフランシスコといった大都市で活躍したからです。 要は、武者修行から帰ってきたようなもので、マクガークはワットを重用します。そして、ワットはニューオリンズ周辺の営業権をマクガークから購入します。資料がないんではっきりしたことは言えないのですが、時期的には、75年のことでしょう。

 

スーパードームとはアメリカンフットボールの試合を中心としたニューオリンズの多目的な大会場です。スーパードームで初めてプロレスが行われたのは、76年7月でした。この出来事は我が国で言えば89年、新日本プロレスが東京ドームに進出したことに当たります。 画期的な興行でした。

 

カードを見てみましょう。テリー・ファンク対ワットのNWA世界ヘビー級選手権、ネルソン・ロイヤル対ロン・スターのNWA世界ヘビー級選手権、アンドレ・ザ・ジャイアント&バック・ロブレイ対ボブ・スウィータン&ケン・パテラ、ディック・ザ・ブルーザー対アブドラ・ザ・ブッチャーなどが行われています。 この内、テリー、アンドレ、ブルーザー、ブッチャーはスポット参戦です。まあ、客寄せパンダですね。

 

ご注目いただきたいのは、残りがレギュラーメンバーなんですが、全員が白人だということなのです。この段階ではワットはマクガークからレスラーを送ってもらって興行を運営しており、まだその独自色が出ていなかったと言えます。つまり、ニューオリンズはオクラホマ地区の一都市だったのです。77年、この地区で武者修行したケンドー・ナガサキさんによると「マクガークとワットとの間には明らかな主従関係があった」そうです。 

 

同じ77年の下半期、様子が変わります。ワットが独自に黒人選手を重用し始めます。ルイジアナ地区で黒人人口が多いことに目をつけたわけですね。

 

背景には、50〜60年代の公民権運動の成果などで、安いとはいえ手が出なかったプロレスのチケットを買えるレベルにまで黒人の経済力が向上したということがありました。 ワットがチャンスを与えたのはレイ・キャンディでした。キャンディ人気は瞬く間に上昇し、ルイジアナ地区だけでなく、オクラホマ地区からも声がかかります。そして78年7月のスーパードームのメインは、キャンディ対アーニー・ラッドの黒人同士の金網戦となります。

 

そしてもう一つ注目すべきは、この興行ではNWAの世界選手権がまったく行われなかったことです。それでも動員的にも大成功を遂げたことで、ワットは大きな自信を持ちました。「NWAもマクガークもなしにやっていける」ということです。

 

そして、翌79年8月、ルイジアナ地区はオクラホマ地区から完全独立しました。史的には「ワットの造反」といわれるものです。 

 

はい。ちょっと政治的な話が長くなってしまいましたね。しかし、このあたりをお話ししておかないと、プロレス界における黒人の地位というものがお話しできないからです。何たって本記事は「ボボ・ブラジルの政治経済学」なんですからねぇ。