ボボ・ブラジルの政治経済学 | 続プロシタン通信

続プロシタン通信

プロシタンとはプロレス史探訪のことです。

20世紀の末、一部で話題となりました「プロシタン通信」の続編をブログの形でお送りします。

1971年5月20日【ニューオリンズ】(NWA世界ジュニアヘビー級選手権)

 

○ロジャー・カービー対ダニー・ホッジ●、移動 

 

ジャズの都として知られるニューオリンズでのメジャータイトルの移動は、1906年のアメリカン王座(フランク・ゴッチ→フレッド・ビール)以来、65年ぶりでした。 

 

1917年、第一次世界大戦に参戦したアメリカは、ニューオーリンズを軍港としました。海軍の命令で歓楽街、といより売春地区として知られたストーリーヴィルが閉鎖されます。これにより、ジャズは廃れ、ミュージシャン達は新しい仕事を求めて北部に移動しました。一次大戦が終わってもストーリーヴィルは廃止されたままで、ニューオーリンズ経済は活気をなくしたままでした。 ここでのプロレスも廃れました。 

 

以後、テネシーやアラバマのプロモーターが火をつけようと進出を試みますが挫折します。 

 

68年、ここにオクラホマのプロモーター、レロイ・マクガークが進出し、定期興行を復活させます。そして70年、王座移動の舞台になるまで、プロレス都市ニューオリンズは復活してきたのです。 

 

そして75年、NWA総会誘致に成功、76年にはスーパードームに進出(メインはテリー・ファンク対ビル・ワットのNWA戦)しました。 スーパードーム興行は、78年以降レギュラー化されます。プロモート権がマクガークからワットに移ったことでマッチメークに変化が生じます。

 

具体的に言えば、南部訛りを前面に押し出した”アメリカンドリーム”ダスティ・ローデスのフューチャー、黒人レスラーの登用です。特に黒人レスラーの登用は、それまで会場に足を運ばなかった黒人客を増加させました。マーケティング風に言うと新ターゲットによる新市場ということになります。 

 

 

 仕切りがワットとなったことはこの街のプロレスにとって大きな出来事です。これについては次回お話ししましょう。