企画展シンポジュウム
壬生藩鳥居家の祖 〝元忠〟の関ヶ原
-山城伏見城で華々しく散り忠義を貫いた〝三河武士〟を語る-
日時:平成29年2月25日(土) 13:30~16:30
定員300名のところ、北は福島県、南は愛知県の歴史大好きな人々が
400名の申し込みあり。
くしくも、2月25日の同時刻に小山市では、会津討伐のため進軍
していた、徳川家康が三成の挙兵を知り、関ヶ原の戦の直前に開か
れた軍儀「小山評定」をテーマに講演会と観劇会がおこなわれている。
第一部〉
基調講演
①講師:演題 徳川恒孝(とくがわ つねなり)様
(徳川記念財団理事長・徳川宗家18代当主)
「家康公と鳥居元忠」
徳川恒孝氏は、元々会津松平家の方でその後宗主に養子に行き、
跡を継がれたというお方。もともと会津松平家といえば、大河ドラマ
舞台になったまさしく会津の松平の方で、その方が徳川宗家を引
き継いだというのがまた面白いですね。
幕末の時は、慶喜に振り回されるだけ振り回された家ですから。
家康(竹千代)は今川の人質時代に〝いじめ〟や〝いやがらせ〟
のなか3歳年上の元忠が、庇い、守り、、忠節を貫き家康から兄
のようにしたわられ、信頼された。
信頼された家臣だからこそ、伏見城で捨石となることができた。
江戸時代は250年間、泰平が保たれた。
西洋では、この間戦が絶えない状態でした。
また、士農工商と身分制度はあったものの、藩を豊かにするという
共通の思いもあり、西洋の貴族と平民ほどの差は無かったと思う。
明治新政府になり、日本国を一つにするため、敵対していた藩相互
の婚姻を宮内省が薦めた。
②内藤正武(ないとうまさたけ)様
(学習院長・内藤家15代当主)
「伏見城に於ける内藤家長の戦功」
三河の内藤氏は家長の祖父の代から松平氏(徳川氏)に仕えた譜代
の家臣の家柄であり、家長は徳川家康に 仕え、義兄の内藤信成から
内藤家の家督を譲られて跡を継いだ。
武勇に優れており、弓の名手で「無双の弓手」と称えられた。
また、父同様に一向宗の門徒でもあったが、三河一向一揆の時に家長
は父と訣別して一揆方に加わらず、義理の伯父に当たる家康に従軍し、
一揆衆を鎮圧するなどで忠節を貫き、家康から信頼 された。
家康から一字を与えられ、家長を名乗る。
天正18年(1590年)8月9日、旧領8千石にさらに1万2千石 を与えられ、
計2万石で上総国佐貫城主となった。
慶長5年(1600年)、鳥居元忠や松平家忠らと共に伏見城 を守備して石田
三成ら西軍の挙兵を誘った。三成ら西軍は 挙兵したが、家長は元忠、家忠
らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で戦死した。享年55。
家督は長男 の政長が継ぎ、戦死した父の功績を賞されて1万石を加増 され
ている。
③稲葉継陽(いなばつぐはる)様
(熊本大学文学部教授・壬生町出身)
「戦場は関ヶ原のみにあらず -慶長5年内戦の実態にせまる-」
熊本大学で約6万点に及ぶ古文書、資料の研究から伏見城の戦の戦略的意味
伏見城の戦は石田派=反家康派を見極めるための試金石として家康によって
設定されたもの伏見城攻め参陣者=石田派の確定は戦略立案と権力体制構想
の基本条件となる。
大軍を置いては戦にらず、あるいは正当性を失い、かといって弱兵ですぐ落城
していまっては意味がない鳥居・内藤・松平家忠らの指名は、家康の分身として
少しでも戦を長引かせ討死し、誰が敵かを確定して内戦の構図を明確にすること
<内戦の地域的展開>
戦場は関ヶ原のみにあらず
家康派、石田派の内戦は地域的展開された
九州を例にとれば
加藤清正の軍事行動と肥後54万石の形成
三成方に付いていた小西行長の肥後国益城郡などの領地を占領
<内戦と人身掠奪>
島津軍が加藤家の支配下にあった葦北郡田浦村を襲い、220人の住民と
牛馬42匹などを掠奪。
戦時人身掠奪は南蛮貿易の主要「輸出品」として日本人戦争奴隷の東南
アジアにおける需要が高まったことにより激化
<終わりに>
戦争=内戦、戦場の民衆、天下泰平=長期平和
第二部〉
パネルディスカッション
パネリスト
徳川恒孝 様
鳥居忠明(とりいただあき)様(霞会館監事・鳥居家16代当主)
雑賀重行(さいがじょうこう)様(日光圓光寺住職・雑賀孫市子孫)
稲葉継陽 様
コーディネーター
笹崎明(ささざきあきら)様(日本城郭史学会委員)
司会進行
小島弘子様(㈱とちぎテレビ)
鳥居忠明様
鳥居家に伝わるエピソードと忠明様の、思うこと
伏見城の戦い、血染めの畳、精忠神社の畳塚
雑賀重行様
雑賀孫市
関ヶ原の戦いで、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒となって 一番乗りを果たし、
伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った。戦後は浪人の後に伊達政宗に仕え、後に政宗
の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に直臣として3000石で召抱えられ、しば
らくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本として付けられた。
雑賀重行様がご幼少のころ、何度か話を聞いたが、その際敵である元忠を元忠公と
読んでいた。敵でありながら、敬意を払っていたのでは。
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