法務省法制史料室の展示には、江藤新平の生涯を紹介したパネルもありました。


その中で印象に残っているのが、


※「明治22年2月大日本帝国憲法発布の大赦により、佐賀の乱、西南戦争の罪名が解かれることになったはずが、時の総理黒田清隆は江藤新平は却下した。背後には井上馨、山県有朋らの暗躍があったと囁かれた。」

というものです。


企画展「参座制度と陪審制度」では、前回記事で取り上げた「小野組転籍事件」とともに、「広沢参議暗殺事件」が紹介されていました。


東京から帰り、読んだのが↓


伊藤痴遊『明治裏面史』上下

昭和14年発行の本を平成25年に発行したもので、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めてあります。


伊藤痴遊(1867-1938)は、板垣退助の自由党の党員で、板垣から講談で主義を広めようと言われて講釈師のかたわら政治活動(衆議院議員にもなった)を続けたんだそうでー


さすが、講談やってただけに文章も面白くサクサク読めます。板垣に近い人なので情報源も板垣によるものが多いかもー板垣は西郷や木戸孝允ら長州の面々、江藤たちとも直接関わっているので、貴重な話も聞けただろうし、反面、他党の大隈重信には全体に手厳しい、細かい史実の間違いもあるなど、すべて鵜呑みにはできないのですが、


「大概な人は遠慮して言わないことまで、相当にさらけ出してある。したがって、多少の非難の起こることは元より覚悟の上である。」(自序)と痴遊自身が語るように、当時を知る人ならではの生々しい時代の空気が伝わってきます。


上巻 八「明治初年(2〜3年)の暗殺事件」の項では、横井小楠、大村益次郎とともに広沢真臣暗殺事件について語られています。広沢は維新十傑にも数えられ、西郷や大久保利通、木戸と並ぶ長州の大物でした。識見もあり胆力もあり議論に強い実力者でした。


横井小楠も大村益次郎も進歩的で仕事ができる人物故に恨まれ、守旧派に殺されてしまいます。両事件の犯人は捕まり極刑に処せられました。しかし長州の第一流の人物にも関わらず広沢の暗殺事件は現代にいたるまで未解決のままです。妾と就寝中に殺されたので、当初妾とそれに通じていた家来が拷問で犯行を自白したものの、要領を得ず後に釈放されその後は未解決のままー。


当時参議広沢は他の参議を圧倒する勢いであり、またー

「広沢が佐賀の江藤新平と相知って、よく江藤の建策を容れたことについては、同じ長州藩士の中にも、非常に不快の感を抱いたものがあったのだー江藤を嫌う情はかえって広沢を憎む心となり、このために何度か、広沢と江藤の関係については、長州人の間に苦情が起こったということである。この一事はどう考えてみても、後の暗殺事件に多少の関係を持っているように思われる。

ー広沢が薩藩の人に対しては、いつも強硬な議論を唱えて、その衝に当たるというような調子であったために、薩藩の人は自然と広沢を煙たく思うような事情もあったーあるいは暗殺の禍を引いた原因にもなったのであろう。」

と本書で指摘しています。



痴遊が言ったわけではないですが、暗殺の黒幕は木戸や大久保との噂もあったようです。←今は否定されていることが多いようですが。横井小楠、大村益次郎の暗殺のようにやはり守旧派の仕業とも言われー真相は闇の中ー



『明治裏面史』上巻には、
五 江藤新平と井上馨(予算問題の大衝突)
六 山県有朋と山城屋事件
十一 尾去沢銅山の強奪

下巻には、
十四 征韓論の真相
十五 民撰議員設立の建白
十八 江藤新平の挙兵

など、など江藤新平関連の項が多数ー


上巻は、予算問題や、井上馨と山県有朋の汚職追求で江藤と長州派が対立した事件が並んでます。

「江藤が直情径行でどんどん押し進めていくと、井上が例の癇癖で自分の気に入らないことは片っ端からはねつける。どっちも言い出したら容易に退かない強情者であるから、〜ついには声を荒げて互いを罵りあった。他の連中がようやく仲裁に入ってこれを引き分けてことなきを得た。こんなことは何度あったかしれないのである。」(江藤新平と井上馨)

↑相当仲悪かったーまあそうでしょうねー。

予算問題はどちらにも言い分はあるでしょうし、山県有朋の山城屋事件も長州の身内びいき丸出しの事件ではありますが、尾去沢銅山事件はどう考えても井上馨が悪いに決まっとる!と誰でも思うほど酷い公私混同極まりない事件です。この事件も井上に捕縛の手が伸びる直前に明治6年政変のため、江藤は下野、追求の手は緩み、うやむやになります。前回記事の小野組転籍事件も同様です。


この本の執筆当時(明治末期~大正時代)は、江藤新平に対する評価が低く、痴遊は以下のように記していますー

「井上馨は既に死んで、山県有朋はいま病んでいる。この際に、江藤新平へ贈位の御沙汰は、なんとなく面白い感じがする。
(井上、山県は江藤に汚職追求されたので)江藤の死後、すでに四十年も経っているのに本人はもちろんのこと、その遺族に対しても何等の恩典は与えられなかったのである。
長州閥の政治家にどれほど勢力があるにしても、そういうことまで立ち入ってかれこれすべきではなかろう」(尾去沢銅山事件の強奪)

「著者(痴遊)は、佐賀県人でもなく、また江藤に何等の縁故もないのであるが、以前からこの点について憤慨するあまり、故人のためにその功績を称揚し、併せて当時の政府が江藤に対して、この残酷な処刑を加えたことを非難して、西郷の遺族が天恩に浴しているのと同じように、また江藤も天恩に浴する資格ある者である、ということを論じて止まなかった。
幸いにしてこの度のご大典(大正4年大正天皇御即位)について、贈位の御沙汰を受けるにいたったのはいささか著者の心を慰めるに足るのである。」(江藤新平の挙兵)


江藤は明治7年処刑されたときに位記(正四位)を剥奪されています。ようやく大正5年にあらためて正四位が贈られたのでした。


以前紹介した(「番外編」2018.3.18) 虎ノ門の江藤新平遭難碑もこの年に建立されました。


思えば、虎ノ門で江藤が佐賀の守旧派(実行犯は藩政改革に不満を持つ足軽たち)に襲われたのも、明治2年ー大村益次郎や広沢真臣たちと同時期ですね。幸いにこのときは怪我ですんだのですがー。


※法制史料室のパネルには明治22年には江藤の大赦は却下されたーと書いてあったのですが、鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』や、最近刊行された 大庭裕介『江藤新平 尊王攘夷でめさざした近代国家の樹立』の年表では、「明治22年 明治憲法発布にともなう大赦令により罪名消滅」と書かれています。???と思ったので出来る限り調べてみました。

それについてはまた次回ー