坂下門外の変の後、昌平黌を退学し二郎(副島種臣)の元に身を寄せた中野方蔵ー

危険な交流を二郎から叱責されるがー

中野は以前、多賀谷勇らの無謀な挙兵計画を罵倒しやめさせたくらいなので捕まらないよーと反論する。

中野と共に昌平黌を退学した山口権六はすでに姿を消し東北に向かった。中野もしばらく江戸から離れ京都に行くつもりでいたともいわれる。


その頃、佐賀ではー

大木民平、江藤新平が中野からの手紙を読んでいたー


手紙には、中野の時論「固本盛国策(こほんせいこくさく)」が書かれていた。
中野がまだ幕吏にねらわれる前に二人に宛てて送ったものだったー

         つづく



大木は明治19年 中野のために麻布賢祟寺に墓碑を建てました。

そこには、「春虎離殃之前、贈書余及江藤新平、ー」←春虎(中野)が離殃(りおうー惨劇という意味か?殃は災いという意味です)前に、私(大木)と江藤新平に書を贈ってきたー

という一文があります。
中野が捕まる前に(もしくは亡くなる前に)二人に贈った書が「固本盛国策」でした。

中野は、「固本盛国策」で幕府の大政奉還を説く(←最も早い大政奉還論ともいわれる)など高い識見を持っていたことがわかります。

将軍が大政奉還し、天皇一君の下、諸藩が心を一つにしてまとまり(ある意味、天皇の下では万民が平等な社会を作り)分け隔てなく全国から優秀な人材を登用し、国内外の政策や諸問題にあたるべきだと主張しています。

「固本盛国策」を読んだ大木と江藤は、非常に感銘を受け、自分たち佐賀勤王党の進むべき道はまさにこれだと確信したのでした。





伝記『中野方蔵先生』には、「固本盛国策」の全文が載っています。

大雑把な要約?(私の訳なので不正確です)を参考までに書きますが長くなるので〜 参考までに〜
m(__)mm(__)mm(__)m

本を固め国を盛んとする先務は、将軍家から政を天皇家に返し、以て人心を一にし、天子をして官制を改正し、愚弱の公家を退け、天下の英士を登用することにある。

源頼朝が天皇家から政を奪って以来、人心は一つにならず、天下は乱れた。

方今、西洋列強が迫り、諸藩は隙に乗じて利益を求め、弱腰の将軍家は最早 国内を治められず、洋夷を制することも出来ず、ただ自滅を待つのみの酷い状態だ。

そもそも、将軍が政を天皇から盗んで行うからだ。政が王室にあればこんなことにはならない。

そうとはいえ、愚弱の公家に政をさせたら、時勢も知らず、私利私欲を貪るのは明白だ。そもそも頼朝が政を盗んだのもそれが原因である。

まして今のような複雑な時勢だ。国を治めるには適材適所の人材登用が肝要だ。

昔ながらのやり方で、住む場所や、職を決められその分に安んじ、農業を基本にしてそれぞれの藩がその国を治めていては外国にやられてしまう。

新形勢は、西洋みたいに都市に人を集め産業を興し鉱山開拓し貨幣をどんどん作り植民地を求め奴隷をもって民を富ませ兵を強くするーというものだが、これで、いくのか? 下手したら国俗は乱れ悪弊が大いに起こり、元にもどれなくなる。

今は本当に難しい時勢だ!

この時勢を乗り切るのは余程優れた人物でなければかなり難しい。将軍家に優れた者がいない場合、たとえ諸藩に億万の優れた人材がいても活かすことができない。

だからこそまず将軍から政を王室に返し、天皇の下、人心を一つにし、官制改革し、全国の優れた人材を登用すべきだ。

そうすれば、皆悦び仕え、万国入貢し、国の本を固めることが出来、(←国体ー国としての基本、あるべき姿が定まるということか?)繁栄するに違いない。


2019 3 22追記↓

中野が江藤、大木に遺した書の中には『固本盛国策』の姉妹編ともいうべき『方今形勢論』があります。

その大意は、以下のようなものです。↓


明天子の下には忠義の士が多くいる。幕府は衰退し諸藩は柔弱だ。

この際、一強藩が大義名分を唱え朝廷に政権を復するよう詔を下さしめ、徳川には百万石の封地を与え、百万石の家来の三分の二を天皇の親兵とさせ、諸藩からも親衛兵を選ぶことにすればよい。

実力相当の者を挙げて将師となし、広く諸藩の会議を開いて新政を定める。国家改革の基本はここにある。天下の優秀な人材が改革に当たれば前途は開けよう。

もしこの機会を逃しむなしく時が過ぎるばかりなら皆私利私権を貪る輩がはびこり、外国が隙に乗じてきてしまう。日本は衰退することを免れまい。