文久2年(1862年)1月15日 老中安藤信正が水戸の激派や大橋訥庵の門弟らによって襲撃される坂下門外の変が起きる。

江戸昌平黌に学ぶ中野方蔵ら佐賀藩の遊学生達は衝撃を受けるー






大橋訥庵一派と中野は交流があった。

「安藤の罹難以来、幕吏の刺客を物色すること甚だ厳密なるに至り、〜多賀谷の徒も、拘引を恐れて江戸を退去したりしかば、細谷厚斎なるものこれを中野方蔵に告げて共に去らんことを勧めたり」(『鍋島直正公伝』第5編111頁)

老中安藤襲撃以来、幕府は取締を強化し、中野とよく交流していた大橋門下の多賀谷勇も拘引を恐れて江戸を去ったー中野にも細谷厚斎なる人物が江戸を去るよう伝えに来たのだったー

中野は、多賀谷らの上野宮を奉じた無謀な挙兵計画をを制したこともあり、(「中野の江戸での活動の足跡」参照)自分は拘引されることはないーと思ったが、大橋、多賀谷らとともに水戸の激派とも交流していたのは事実であり、念の為同居していた山口権六(←後の荒木博文ー江藤新平の虎ノ門遭難碑を建てた人物ー「番外編」参照)と共に昌平黌を退学し、身を隠すことにした。


ということでー


千駄ヶ谷の佐賀藩邸の二郎さん(副島種臣)の元へ転がり込む二人であったー

         つづく


坂下門外の変は文久2年1月15日に起きましたが、首謀者とされた大橋訥庵はその3日前にすでに捕縛されています。

大橋は一橋慶喜を擁立し挙兵を企て、かつての門人で一橋家近習 山木繁三郎に慶喜への呈書を依頼するも山木はその計画を恐れて老中の久世広周に訴え出てしまい、あっけなく大橋らは捕縛されてしまいます。

この時点では老中安藤信正襲撃計画は露見していません。

桜田門外の変や、文久元年の東禅寺事件(高輪東禅寺のイギリス公使館襲撃事件)を起こした水戸の過激浪士らは、この頃、長州の桂小五郎や久坂玄瑞らと同盟(成破同盟、水長盟約、丙辰丸ノ誓)を結び、水戸が安藤信正を殺害し、(その後自分達は死んでしまうので)事後を長州に託すーという計画を企てています。

彼らは安藤信正の進める対外政策や公武合体政策ー和宮降嫁に激しく反発していました。
しかし長州の藩論の変化で同盟は挫折してしまいます。

そのため水戸の浪士は宇都宮藩の大橋訥庵一派との連携を深めていきます。
彼らは安藤信正殺害後、攘夷の勅諚を朝廷に奏請し、一橋慶喜を擁して日光山に攘夷の義旗を挙げる計画を企てます。

しかし先に書いたように一橋慶喜擁立計画が露見し、大橋訥庵や義弟の菊池教中は安藤襲撃前の1月12日にすでに捕縛されてしまうのでした。残された大橋一派と水戸浪士らは15日に襲撃を決行したものの、厳重な警備に阻まれ暗殺は失敗に終わります。

坂下門外の変については、『立命館言語文化研究23巻3号』田中有美「坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩」、藤野真挙「幕末水戸藩 激派と鎮派 の政治行動ー坂下門外の変に至る経緯を通じてー」を参考にしました。

両論文にも中野方蔵は出て来ず、中野はこれらの計画には無関係だとは思われますがーある程度、彼らの動きを察していたのかーはわかりません。

水戸藩士といえども、過激な者「激派」は一部で多くは穏健な「鎮派」だったり(藤野氏)、大橋一派も朝命を得ることを前提にし計画実行に慎重な大橋訥庵に対して門下生の多賀谷勇らは実行に固執するなど、一枚岩になりきれなかった(田中氏)ようです。

計画の詰めも甘い気もします。山木は元門下生だとはいえ、大橋も一橋慶喜への呈書を軽々しく託しすぎでは?

また水戸浪士たちは自分達の役割を直接行動ー「斬奸」「斬夷」に限定し、その後自分達は死に果てるー尊王攘夷という目標は自分達の死をきっかけに展開していくものと理解していた(藤野氏)という水戸過激浪士の思想については、中野は桜田門外の変当時から批判的に見ていました。(「中野、大木と江藤に手紙を出す!①」参照)

一方で彼らを扇動して「大革新」を起こしたいとの思いもあった(『中野方蔵先生』)面もないとはいえずー

中野は幕府から要注意人物とみなされていくことになります。