文久2年1月初旬ー

今日も腰を痛めた二郎のお世話にやって来た中野方蔵ー


中野は先月の薩摩藩邸の火災が自火であり、薩摩藩の連中が何かやろうとしているらしいこと、それを佐賀藩邸の役人に伝えたが聞き入れられないことを二郎に告げー


中野は「自分たち佐賀勤王党も早く行動を起こさなければ❗」と言うのだがー


二郎は、朝廷のために尽力するのは当然だが、閑叟公(←鍋島直正は前年11月に隠居、家督を直大に譲った。以後、閑叟と号した。)を奉じて行うべきであり「閑叟公を説得するのが先だ。」と言うのだったー


中野は内心「説得してからなんていつまでかかるやらー」と嘆息していたー

更に二郎から過激浪士たちとの交流に釘を刺されるのだったー



        つづく

中野の伝記『中野方蔵先生』の編者相馬由也は、中野と藩校弘道館や佐賀勤王党の先輩である副島種臣(二郎)との関係について

「日夕相親しみつつ、猶ほ一膜の気分の隔つる処が最後まであつたか」と記しています。

二人は江戸でもいつも一緒で、志も同じくし共に語り謀りもしたらしいが、副島は学識深淵で人柄は謹厳方直(真面目で正直)、機略(臨機応変の策略)の人ではない、中野よりも大分年長(7才年上)であり、そのため中野も江藤、大木と謀るほどには副島には謀らなかったーといいます。

中野は親友の江藤新平や大木民平(喬任)の三人で「大革新」を画策していたといわれます。
それについては以前取り上げた中野から大木と江藤に宛てた幾つかの手紙にも断片的に記されているものの、具体的にどんな画策なのかはよくわかっていません。

『中野方蔵先生』には

「先生等は頭から階級思想を斥け、凡て綺麗に地均しして一切平等の観念に立直り、只一君の統治下に人才本位の登庸こそ然るべけれと考へた」

↑中野たちは、一君(天皇)の下、一切平等で階級のない社会を作り、人才本位の登用をすることを理想としたー

これは神陽先生の「日本一君論」に基づくものであり、中野たちや二郎たちも含め、佐賀勤王党の理想とする国の姿だと言えます。

中野は江戸で他藩士と交わる際に「日本一君論」は一切話さず、幕府の非政を列挙する程度にとどめていました。水戸を扇動し事変を紛起させ幕府が衰えた時に初めて「日本一君論」を持ち出し、一気に王政を古に復させようとの魂胆であったろうーと『中野方蔵先生』の編者相馬は推測しています。

「江藤、中野に誉められる!」で紹介した手紙には、中野が水戸人と佐賀人を「水戸は気が有り智無く、佐賀は智が有り気が無い」と評している部分もあります。水戸は知恵は無いが行動力はあるのに、佐賀は知恵はあっても行動力に欠けると暗に佐賀勤王党の先輩たちを批判しているのかもー閑叟はじめ藩の上層部への批判でもあるでしょうがー

中野は、天皇親政という理想は枝吉神陽ら佐賀勤王党の面々と同じくしながらも、先輩たちのように閑叟が動くのを待つのではなく、江藤、大木とともに半ば強引にことを進め、閑叟が動かざるを得ない状況を作り出したかったのかもしれません。

中野の見るところでは、他藩士が天皇を担ぎ上げるのは自藩の利益を得るのが目的であり、自分たち佐賀勤王党のように純粋な天皇親政の理想を持つ者は他にいないー

また、島津斉彬のような名君や徳川斉昭のようなカリスマ的な人物が亡き今、頼りになる大物は、もう鍋島閑叟しかいないー

水戸藩士たちを扇動しやがて幕府が衰えた暁には、賢才の閑叟こそが新しい天皇制国家を作る中心人物になってほしいーと考えていたのでしょうか。

中野は危険は承知の上で水戸をはじめ他藩士と交流をはかります。そして二郎さんの心配がやがて現実のものになってしまうのでした。