大庭裕介『江藤新平 尊王攘夷でめざした近代国家の樹立』興味深く読みました!!

多くの人が持つ江藤新平の良いイメージは、毛利敏彦氏の著作に代表されるようなー司法権独立を推し勧め、不正を追求し、人民の権利を擁護したー現代に通じる民主主義的な人権意識を持った人物ーと言う感じ?でしょうか。

しかし大陸政策を掲げていた戦前の日本では、征韓論者として江藤は評価されていました。大正時代の伝記『江藤南白』もこの頃出版されています。

大庭氏も指摘されるように征韓論者の江藤像と民主的社会実現に尽力した江藤像は整合性がつきにくいものです。

↑中学生のころ私がなんで江藤は進歩的な人なのに佐賀の乱なんて起こしたのかなあー古臭い不平士族とは逆なんじゃないの?と思ったのも、こういうとこが原因?のよーな。

↑どちらの江藤像も各時代の世相を反映し理想を投影した江藤像であり、私も、現代人の感覚で江藤新平を理解しようとしていたに過ぎないーとゆーことかな。

江藤は西洋的近代化を積極的に推し進めたイメージもありますが、大庭氏は「江藤は国学思想に立脚しながらも、西洋法 中国法を参考にして、柔軟に日本の法制度を創り出そうとした」「天皇制国家の運営に影響を与えない範囲での西洋化」を容認していたーとし、江藤の理想は「国学と神道にもとづく」「天皇制国家」であったと指摘されています。

国学と神道にもとづく天皇制国家が理想ーというと、やはり江藤の師である枝吉神陽の「日本ー君論」が思い浮かびます。

大庭氏によれば、「江藤の近代化構想は、尊王に立脚した君主独裁を政体の基礎に据え、攘夷のための万国並立を期して西洋の政治制度を取り込んでいった。江藤の思想の特質は、尊王攘夷、国学と西洋化を断絶、転向でなく、つなぎ合わせることにあった」とのことです。


ところでー


ちょっと前までは江戸時代の日本は〈鎖国〉していたと教科書にも書いてありましたが、今の教科書では〈海禁政策〉なんですね!


従来幕末は、
天皇の意思を尊重した〈尊王攘夷〉派と、
朝廷に妥協しつつも幕府が主導権を握ろうとする〈公武合体〉派の対立と捉えられていたのが、

近年では、安政5年(1858年)に締結した通商条約の是非を巡る対立であり、

〈小攘夷〉ー勅許を得ず締結した安政の通商条約を破棄し即時攘夷決行を主張するものーと

〈大攘夷〉ー開国通商し富国強兵の後攘夷を目指すもの(現時点では西洋諸国との軍備の差は歴然としていることを認識し無謀な攘夷を回避する立場。将来的に攘夷を目指す)ー

の対立だと捉えられているそうです。


つまりは、幕末の人たちは皆(←朝廷や奇兵隊の面々だけでなく、坂本龍馬も西郷どんも、江藤新平も、鍋島直正や島津斉彬も、幕府の偉い人たちもー敵も味方も皆)、〈攘夷〉思想 だった!! ということのようです。


大庭氏の本を読んで、詳しくその辺りも知りたくなり、町田明広『攘夷の幕末史』を入手し、読んでみると、すんごい面白かった!!2010年に出版されてたのかーもっと早く読んでりゃなー!

江戸時代は皆、日本人は攘夷思想だった! ということが納得できます。

尊王攘夷思想に影響を与えた国学ー国学が興る時代背景ー『日本書紀』に記載されている「三韓征伐」←日本が朝鮮という朝貢国を得て「東夷の小帝国」となったと考えられていたー

↑中華思想(中華帝国が世界の中心)の考え方から、朝貢される側の国になることが一人前だとされてたんでしょうね。

中国とオランダとは長崎で通商していた徳川幕府も、朝鮮や琉球は朝貢国と規定していたそうです。(朝鮮については、幕府が国内向けにだけ朝貢国と言い張ってたらしい、朝鮮は日本へ朝貢している意識はなかったー)

日本独自の文化、思想、精神世界を日本の古典や古代史に見出す学問ー国学ーは、万世一系の天皇を日本の優越性の根拠とし、皇国思潮を生み出します。ロシアなどの脅威や飢饉一揆などの社会不安が重なり、尊王攘夷思想に発展したのでした。

後期水戸学の「幕府が朝廷を尊奉すれば、大名は幕府を崇拝し、家臣は大名を尊敬する」という思想に当時の武士たちは多かれ少なかれ感化されているーとのことです。(そう言えば神陽先生も藩から非難された時に、↑こんなような反論してますね。「二郎、京都に行く!」参照)

町田氏の『攘夷の幕末史』ー 長くなるのでこれくらいにとどめますが、(ホントはここからが本番?なんだけど)幕末の色々な事件や登場人物がいすぎて関係性もいまいちわかりにくい あたりが、「小攘夷」「大攘夷」の対立で捉えるとよくわかります。長州藩と小倉藩の対立した朝陽丸事件などあまり知られてない重要事件についても詳しく紹介されています。(小倉藩かわいそうになります。)内乱の危機もあり、植民地化の可能性も派生する中、「当時の日本人のリーダーたちは、それをじゅうぶんに認識できており、幕末の抗争とは、内乱や植民地化を回避するための政争でもあった」(町田氏)のでした。


大庭氏 町田氏の 本を読み、このブログを書いてきて色々調べるうちにでてきたもやもやした違和感がちょっと晴れたようなー

例えば、江藤新平の「図海策」ー早い時期に開国通商を行うことを主張し、人材登用や民政重視したーと毛利氏著などでも評価されています。しかし、全文を読んでみたり、江藤新平直筆の草稿を読んでみると、江藤もまた「大攘夷」的な思想であることがわかります。(「江藤、図海策を著す!」〜「明治維新150年」参照)

江藤はー形勢ーの最後で「三韓征伐」に言及しているのですが、その前の部分は「西洋各国の会盟に参与し弱を助け強を抑へ義に興し不義を撃ち巍然として天下の依頼するところと為らは宇内自ら日本に帰せん」と、『南白遺稿』や『江藤南白』では記述されています。

しかし、実際の江藤新平直筆草稿には

「西洋の会盟に預かり 飢饉水害に苦しむ国には糧を送り恩徳を施し 不義の国には檄を伝えて亡すべし ー中略ー 諸国遂に宇内(世界)の中 日露英仏四大国にならん
この時もし仏衰えれば露と英とともにこれを亡し、もし英衰えれば仏と露とともに亡す、露もこの如しー」

中略のところには西洋各国と協力して対象の国を攻めるーとあります。そーこーしてるうちに例えば日英露仏の四大国が世界征服したとしたら、衰えた国を他の国と攻めー最後に日本が世界を治めるーという内容です。 

現代人から見ると色々ツッコミたくなるー私としても理解に苦しんだ部分ですが、江藤だけでなく当時の日本の知識人は「三韓征伐」をしばしば引用したり、日本が一番古い国だから世界中の国は日本に帰属すべきだと言う考えを述べることも特別珍しいことではなかったことがわかりました。このような「大攘夷」的な考えが理想だったということなんでしょう。(『南白遺稿』を出版する時には当時の英仏露との関係を考えるとそのまま記述するのは憚られて、この部分は削除改変されたのかもしれないですね。)

もちろん、「図海策」が安政3年という時期に 西洋の賢才を招いて学問技術を学び、人材登用すべしーなどと、述べていたりして、今でも評価すべきところが多々あるのには違いありません。当面の戦争は避けるべきで国力充実をはかれというのも冷静な情勢判断だと言えます。


一方で、大庭氏と町田氏の本を読み、新たなもやもや?も出てきてー

例えば、徳川幕府が(日本の国内向けには)朝鮮を朝貢国としてみなしていたため、朝鮮は日本に帰属すべきといった「征韓論」に繋がるような考えは江戸時代からすでにあり、明治6年のリーダーたちには共通の常識?みたいなものだったーとしたら、政変はなぜ起こったのか?やはりそれ以外の原因が大きいのか?とか、

天皇制国家を理想とした江藤が最期は逆賊として処刑されてしまうことが、なんという残酷なことだったかーということなどなどー

また追々考えてみたいと思います。


現代のものさしだけで歴史上の人物や事件を評価するだけでは真実の姿に近づくことにはなりません。

と言いつつもー現代の我々は歴史上の人物に理想を投影し、歴史的な物語を創り鑑賞するーそれはそれで創作だとわかった上で楽しむのはよいことなわけでーいきなり堅い論文よりは小説やドラマや漫画やゲームきっかけの方が興味持つ人も多いだろうし。

昔の人だって、歌舞伎やら講談やらで贔屓の歴史上の人物を描いて楽しんでいたし、神陽先生や江藤たちの憧れる楠木正成だって、彼らの思うような人だったかはわからないけど幕末の神陽先生たちにとっては理想を託し、自分たちを奮い起こすことができた存在だったんでしょう。


長くなりましたーm(__)m


また、次回は、中野方蔵の動き に戻りたいと思います。