細島線 港のハチロク | 今日も まっ晴れ! 鉄道回顧録

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 嘗て、九州は日豊本線の日向市駅より東へ、細島港に向けて細島線と言うローカル線が走っていたのを御存知でしょうか?

 

 私が其の細島線を訪れたのは、盛岡からC61が宮崎機関区へ転属して間もない頃、私が中学2年生の冬のことでした。

日豊本線にはC61の他、宮崎以南には田野・青井岳などの有名な撮影地を門デフのC55C57が走っていたにも係らず、私は港のハチロクが見たくて、南九州に着いてまっ先に細島線を目指しました。

 夜行急行「日南」で九州入りして夜が明けた頃、重岡駅には宗太郎越えを控えたD51重連が車窓より見えました。もうこの頃は延岡以北の電化に備えて架線柱が植立されています。

昭和46年12月31日

 

急行「日南」号を日向市駅で降り細島港を目指します。

(上の乗車券は後日

昭和47年1月3日に購入したものです。)

 

当日は都合の良い細島線の便がなかったので

宮交バスに乗って細島駅に向かいました。

 細島駅にはワフ1両を繋げた78626が広い構内にポツンといました。ハチロクにしたら少し新し目のカマですが、自分が思い描いたとおりの“港のハチロク”に感激です。

 

 駅事務所で撮影許可を貰うと「ここにはこんなカマしか居ないよ」と言いながら、機関士さんらしき方が出て来て石炭をくべてくれました。

 こんなローカル線だけを走るカマにも立派な砲金製の区名票が付けられています。

 

 石炭をくべて戴いたので煙突からは煙が出てきました。

 港のハチロクの煙突は残念ながらパイプ煙突で、大きなデフも装備されていましたが、さすが九州の機関車は良く手入れされていて、罐全体がいぶし銀のように輝いています。

 

 ハチロク貨物をどこか港っぽい所で撮りたかったのですが、適当な所を見つけられずに下曽根踏切と言うところで待つ事にしました。細島駅の電話番号が4ケタと言うところに時代を感じます。

 15:12 結局はありがちな線路際で写真を撮ることとなりました。ただ機関士さんが撮影している私を見つけてくれて78626はワフ1両しか付けていないのにもかかわらず、駅を出る時からドレインを切り放しで煙モクモクの大サービスでした。

 

 細島線に初めて訪れた数か月後の昭和47年春には、細島線の旅客扱いは廃止され貨物専用線になってしまいました。

 

 

 次に“港のはちろく”を求め細島線を訪れたのは、前回来た時から1年半経った高校1年の夏休みの事です。

 前回の反省もあり今度は絶対に港と判るような写真を撮ろうと試みたのですが、やっぱり良い場所を見つける事ができずに、前回と同じ下曽根踏切の所で撮る事になってしまいました。でも今回は、辛うじて船のマストを左端に写すことができました。

 

 日を改め、この日は細島駅から直ぐの運河の所で撮ってみました。

 材木も積んであり少しは港っぽく写せたように思います。また此の橋梁の橋台は今でも残っていると、どこかの細島線廃線跡のブログで読んだ事があり感慨深いものがあります。

 

 この撮影行では細島港にある民宿に連泊したのですが、午前中は本線のC57やC61を日向付近で撮り、午後から細島港へ戻ると言う行動パターンでした。

 お昼過ぎに細島に着く貨物列車を写していたら、駅横の倉庫群を通り、港の見える所までハチロクは貨物の入れ替えに出て来ていただろうに、やっぱり本線のC57やC61のほうに魅かれていたようです。

 

 いま考えると一日くらい細島港に留まっていたら良かったと後悔ですが、我慢できなかったのは其れだけ若かったんですね(^^

 

 下曽根踏切は細島港の広い道路を横切っているのに遮断機のない踏切で、後ろの石油タンクと共に此方のほうが少しは港らしく見えるでしょうか?

 

これは日向市と門川の間

 

 昭和47年正月のことで、本線の貨物列車は軒並みウヤだったにもかかわらず、細島線の貨物列車だけは貨車を牽いてやって来てくれました。

 

 帰阪する折りは何時も日向港からフェリーに乗っていたので、フェリー出帆までの待ち時間に撮ったものです。

 

 

もう50年近く前のお話しを

最後まで御覧戴いて ありがとうございました。