満州というユートピア
戦後の日本が高度成長を謳歌していたころ、ちまたではまだあちこちに戦争の爪痕が残っていた。国民は平和のありがたさを甘受し、戦争はもうこりごりだと痛切に感じていた。そんな時代の「母と僕の戦争」の話である。 小学校に上がると母からしばしば戦争中の体験を聞くようになった。その中でも満州の話は特に印象に残っている。大陸にある満州という国はユートピアだという。お国はその開拓のために移住民を募集しているそうだ。残念ながら僕は四人兄弟の末っ子である。真っ先に満州とやらに送られるに違いないと不安になった。 満州とはどこにあってどんな人が暮らしているのだろう。百科事典を開いてみたが、それが日本の一部なのかあるいは別の国なのかさえもよくわからなかった。なんとか満州がもう存在しないとわかって安堵したけれど、家族と離れ、異人の住む未開の地に旅立っていった若者たちの不安な気持ちがわかるような気がした。 満州国が建国されたとき母は青春真っ盛りの14歳。尋常小学校を卒業してすでに働いていたと思う。当時、国民は満州への日本軍の快進撃に酔いしれていた。満州の話をするときの母の表情も戦争の悲惨さについて語るときとは違って見えた。むしろ若かりし青春の日々を思い出し懐かしんでいるようにさえ思えた。 母は幼い頃に両親を亡くし親戚のもとで育てられた。とても貧しかったという話は生前よく聞かされた。14歳の頃の母がどんな夢を抱いていたのかとても興味がわくけれど、今となっては知るすべがない。もしかすると母もまた、貧困から抜け出すため、新天地での新しい未来を夢見た少年少女たちの1人だったのかも知れない。 幸いにして母は満州に移住することはなかったが、移住民の末路は悲惨であった。終戦を迎えると侵攻してきたソ連軍を前に日本軍は列車で逃亡。移住民はとり残されその多くが祖国に帰れなかった。満州での犠牲者数は広島への原爆投下や沖縄戦のそれを凌ぐという。満州は軍人や官僚など支配者層のためのユートピアでしかなかった。会社の慰安旅行にて(知多)