今日の言葉では「京杭大運河」という名称がつけられている。

 

 単に、固有名詞で「大運河」とも言う。もちろん今も水運に使われているので、その意味では「役に立っている」といって間違いではない。しかし、中国史のなかでの大運河は、朝滅亡の誘因ともいわれ、国家を危うくした象徴でもある。

 

 中国伝統文化が最盛期を迎える唐代の前に、隋朝(581~618)という、まことに短いが、良くも悪くも濃度の高い王朝があった。隋の文帝(楊堅)は、魏晋南北朝以来の混乱を鎮め、中国全土の統一に功績があった人物であるから、その過程において荒々しいときがあったとしても、有能な創業者であるといってよいだろう。

 

 ところが2代目が問題児であった。楊広(ようこう)というのがその名だが、唐代以降の歴史は、この人物を中国随一の暴君であるとして「煬帝(ようだい)」と呼んだ。「煬」は火であぶる意である。おまけに皇帝の「帝」をわざわざダイと読んで、あからさまに差別化している。

 

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