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秦の末期、「楚は三軒しかいなくても、秦を亡ぼし、楚を勝利に導く」という諺が流行っていました。紀元前209年、陳勝は反乱を起こし、「張楚」政権を樹立し、世の中の英雄を集結させ、項羽劉邦も楚人の子孫として立ち上がりました。比較的平和な淮陰県で、韓信は彼の宝剣のように鞘から抜くのに最適な時期を待っていました。

 

この秦王朝との戦いの中では、韓信は自らの才能と戦略だけが頼りでした。彼は個人の名利を追い求めないで、国を守りました。そのため一人の本当の国を導く王を選び天下を統一し、平和な世の中を実現しようと考えていました。

 

韓信はまず項氏の兵士と馬に目をつけました。項梁は楚国の名将・項燕の息子で、名声も高く、彼と彼の甥の項羽は、八千人の江東(今の長江南東地区)の兵士たちを率いて秦と戦うために、さまざまな才能の人材を集めました。軍隊規模はすぐに六万から七万人にまで拡大し、中には各反乱軍の重要な指導者となる者までいました。彼らが淮陰県を通過したとき、剣を持った一人の青年が彼らの軍に入ってきました。彼は無名の兵士のように見えますが、実は彼こそさまざまな戦争で、実践的な経験を積んで無敵の戦争の神である韓信だったのです。

 

項梁は傲慢で頑固で、敵を過小評価したため、紀元前208年9月の「定陶の戦い」で戦死しました。すると韓信は項羽に目を向けました。しかし、この強大な英雄の項羽は、叔父のように、韓信の真の力を発見できず、彼を「中堅以下の軍人」として、自分のそばに仕えさせただけでした。 

 

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