宦官に拉致された漢の少帝と陳留王を、官吏や将軍が見つけ出した後、西涼の刺史である董卓は、混乱に乗じて、皇帝を守るという名目で、大軍を率いて少帝のもとへ直行しました。

 

これは宮廷にある大臣や皇帝を直接拉致したに等しいのです。董卓はすぐに皇帝の退位を強制的に行いました。この出来事をきっかけに、当時、国内で絶大な人気を誇っていた偉大な儒学者である盧植(唐代に孔子廟に祀られている)は、董卓の廃帝に対する反論を出しました。

  董卓の廃帝の陰謀

 

三国志演義』の第三回では、少帝と陳留王が董卓の「援護」を受けて宮中に戻った後、玉璽が失われ、董卓の反乱の意図が明らかになってきたと説明されています。

 

「董卓は、兵を城外に駐屯させたまま、毎日、武装した軍隊を連れて城内を歩き回り、人々を恐怖に陥れた。毎日、何の配慮もなく宮殿を出入りした。そして後方軍の中尉である鮑信は袁紹のところに来て、董卓には他の野望があるはずだから、すぐにでも排除すべきだと言い出した」

漢霊帝の時代に、宦官が優遇され、宦官の下に「西園八校尉」という直属の軍隊が設けられ、8つの部門に分かれていました。当時、袁紹、曹操、鲍信は校尉であり、皇帝を守ることは主な責任です。そのうち、袁紹は中央軍の尉官です。宦官が壊滅した後、八人の尉官は散り散りになり、その強さは名ばかりのものになったため、董卓軍に対抗する実力はなくなってしまいました。鲍信は兵を引き連れて去っていったのですが、袁紹と司徒である王允は、鲍信の忠告に従う勇気はありませんでした。そして少帝の周りにいた校尉は、軍勢が次第に薄くなり、力を失っていきました。

 

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