君はいつからそんなに離れていってしまったの?艶やかとまではいかないそのさらっとしたストレートな髪から漂うかすかな匂い。抱きしめるとその匂いが僕を丸ごと包み込んでくれる優しい匂い。キスをすることさえたじろいでしまうほどの薄い唇。しかし君の瞳から映し出されるのは僕ではない。その瞳の奥に君は何を見ているのだろう。漆黒なその瞳になんだか吸い込まれそうで、でもそんな君にいっそのこと吸い込まれたっていい。
駅のホームに近づくにつれて足を早める君に遅れまいと自然と僕の足も彼女の歩調に合わせていく。なんだかどこかへ行ってしまいそうで、ただそれを止めることもできない僕の手がビル風から漂う荒風に押され、無残にも僕と彼女の距離を引き離していく。君の歩みを止めたいのではなく、僕は君の歩調に合わせたいんだ。それなのにいつしか道を間違えたみたい。いや、同じ道を歩いているはずの僕らかと思っていたんだ。君の歩くその凛とした姿を見ているとなんだかついていくのが億劫な気がしてかける声もなかった。一緒に過ごしてき数々の思い出がまるでなかったかのように。
真っ暗な闇の中から照らし続ける月はそこにはなく、駅のホームから漏れる明かりだけがそこにはある。きりっとした静かな空気が僕の躰を凍えさせる。煉瓦のタイルを歩く僕ら二人の足音が鳴り響く。その音が僕らのある一定の空間に連続的にこだましている。言いたいけど言えない。いや、言うのが怖い。気がつくと十数メートル先に改札が見える。悲しいかな、ホームからがんがんに浴びてるはずの星色の光でさえ僕の心を照らしてくれることはなかった。ここまでの道のりが長かったのか短かったのかは正直よく覚えていない。ただ君の歩くその歩調を眺める目線を上げると、モッズコートからちらっと覗かしている君の真っ白なか細い指先が小刻みに震えてるのがわかった。その手を、優しく君から感じたその温もりを今度は僕が君に返してあげたいと脳裏に思い浮かべながら、君の後姿をただ黙ったまま眺めている自分がいた。
「それじゃあ、またね」と僕は言う。
黙ったまま俯く君の顔を見つめたまま、このまま一生上がらなければいいのにと願う。その時が刻々と迫っていることを僕は知っているのだから。そんな想いも虚しく彼女は顔を上げ、その猫みたいな目つきを僕の顔に標準を合わす。
「あのね、ちょっと思うんだけど」彼女の目線が再び下を向く。
必死に踏みとどまり、もがき苦しむ彼女の表情から、何とも言えないこみあげてくるこの感情を必死に押し殺そうと、僕の握りつぶした拳から湿った皮膚の感触が伝わってきた。
「言いにくいんだけど、ちょっと距離をおきたいんだ。」
「うん。」
「なんかいろいろいっぱいいっぱいで、それで・・・少しだけ時間が欲しいの。」
そう言い終えると薄い唇を軽く噛み、ポケットに手を突っ込む。フードに付いてる小さなファーたちがだらし気もなく垂れている。なんだかその言葉を聞いた瞬間、怒りではない別の何かが込み上げてきていた。悲しみではない。ただただ辛い。なんて言葉を言わせてしまったんだという後悔とやるせない想いでどうしていいのかわからなくなった。
「なんか、そんな気はしてた。ただなんでなのかなって。辛いことがあったら相談してほしいって思ってたけど、きっと君はそんなことを思ってたんじゃないんだよね。ごめん。」
「いや、本当に謝らないで。ただ私が悪いだけなの。少しだけ時間が欲しいの。整理する時間を。」
なんで?どうして?何が?いつから?こうした一つ一つの疑問がお互いに一致してないことが伝わってくる。チグハグに重なり合ってできた歯車の崩れる音と電車の通過する音とが見事にシンクロして僕の心の中をより一層複雑にさせた。しかし一方で、そう言い終わった彼女の表情は少しだけ穏やかになっていた。
「そっか。まぁそういう時もあるよね。たぶんそれは僕じゃない何かでしか埋めることができないんだよね?だから、そうだね。また連絡してほしい。」せめてもの抵抗だった。
僕が踏み出したその一歩に、彼女は少し後ずさりをしたのかもしれない。こんなにも距離があるなんて思ってもみなかった。君の想いが溢れるくらいの包容力があったらいいのに。しかしそんなの君は求めていない。冷え切ったその凍える指先のままで生きていきたいってその瞳が伝えていたことに気づいてしまったから。
「ごめんね。でも、大丈夫だから。」
そう言うと、彼女はくしゃっとしたその笑顔を僕に見せ、僕の目をその猫みたいな目で見つめながら、しかし依然として彼女の体は小刻みに震えたままだった。
改札を通り過ぎた彼女の姿を目で追う自分に苛立ちを覚える。今にでも改札を飛び越え、彼女の手を握り締め、彼女が抱えてる不安を全て吐き出してあげたい。しかし、その一歩を踏み出す足はもうここにはない。ただ黙って眺めることしか今の僕にはできなかった。彼女が姿を消すその瞬間までそこにあったものは、静まりかえった駅のホームに彼女の優しい匂いだけがほのかに香るだけだった。彼女の存在がこの凍えきった空気に消え入るような気がして、この薫りを忘れまいと、ただただ虚しさだけが僕の心に残った。