それはまだ春の兆しが遠くにあるように見える初春の朝の事だった。
「光秀、留守を頼むぞ」
「はい、御屋形様」
私は遠征に出かける信長様の見送りをしていた。
先般の戦で酷く負傷した私は、今回は城に残るようにと言われたのだ。
「貴様など居らぬとも勝てる。怪我人は引っ込んでいろ」
実に憎々しい言葉ではあるが、これは私の体を労っての発言だと私は思っている。
「信長様、お気をつけていってらっしゃいませ」
私の後ろにいる陽菜が心配そうに、御屋形様に声をかけた。
「直ぐに戻る。甘味を用意して待っていろ」
「はい!」
陽菜は御屋形様の姿が見えなくなるまで、ずっとその場から動かなかった。
「陽菜、もう戻りましょう。このままでは貴女の体が冷え切ってしまう」
「はい、光秀様」
陽菜が白い息を吐きながら返事をして城門の中へと足を向けたその時、異変は起きた。
陽菜の体がグラリと揺らぎ、そのまま力なく倒れてしまったのだ。
「陽菜!?」
慌てて駆け寄り体を起こすものの、意識を失っているようだ。
「部屋まで運びます。誰が薬師を呼んでください」
私は騒然とする場を収め、陽菜を抱きかかえて部屋へと急いだ。
褥に横たえ呼びかけるが、陽菜は青白い顔をしてグッタリとしたままだ。
「陽菜!しっかりしなさい!貴女が倒れたら誰が信長様をお支えするのですか!」
「…」
薄っすらと目を開けた陽菜は何か言いたげな顔をするが、言葉にならないようだ。
「陽菜!」
その時
ぐぅ…きゅるるる
「…」
「…」
陽菜の腹の虫が鳴った。
念の為に薬師に見てもらったが、倒れた原因はやはり空腹のようだ。
「陽菜が絶食をしていた…?」
思い当たることが一つある。
御屋形様がここ数日絶食をしていたことだ。
御屋形様は度重なる暴動を収める度に、ろくに食事出来ない農民達を見てご自分を責めるように食べ物を口にしなくなる。
それを知らない陽菜は度々食事を進めたが御屋形様は譲らず、陽菜の項垂れる姿を度々目にしていた。
「もしや御屋形様のお気持ちを知るために自身も絶食を?」
馬鹿馬鹿しいとは思ったが、おそらく陽菜にとっては思い詰めた末の行動だったのだろう。
ため息が漏れる。
「本当に…しょうがない人達だ」
私は厨房へと足を向けた。
「陽菜、起きていますか?」
「光秀…さま?」
襖越しに声をかけると、中から身動ぎする音とともにか細い返事が聞こえた。
「失礼する」
私は手にしていた盆を一旦床に置き、襖を開けた。
陽菜は体を起こし、じっと俯いている。
「腹の具合はどうですか?」
「お腹…空きました」
叱られるとでも思っているのか、私が側に腰をおろしても陽菜は頭を垂れたままで顔を上げないでいる。
「顔を上げなさい。叱りに来たのではありません」
私は持ってきた盆を引き寄せ、陽菜の膝の上へと置いた。
「…おにぎり」
陽菜は不格好な握り飯を眺めながらポツリと呟いた。
「味の保証はないのですが、何も食べないでいるよりは良いでしょう」
「これ…もしかして光秀様が?」
私が作った握り飯は、何時も陽菜が作る綺麗な握り飯と比べるとかなり酷い外見だった。
「貴女のように上手く握れず…申し訳ないのですが…」
苦笑いする私に、陽菜は満面の笑みを向ける。
「そんなことないです。嬉しい。有難くいただきます!」
陽菜は嬉しそうに握り飯にかぶりつき、満足そうな顔をした。
「おかかだ!光秀様のお好きな具材ですね。光秀様のおにぎりとても美味しいです」
「…良かった。味見もせずに持ってきたので、本当は味が心配だったのです」
陽菜は美味しそうに、私の作った不格好なおにぎりを口にしている。
「光秀様、夕餉は召し上がりましたか?もしかしてお食事されていないのではないですか?」
「私は…」
私は大丈夫と答えようとしたその時
ぐぅ…
恥ずかしながら私の腹の虫も鳴った。
「ふふっ、光秀様も空腹なのですね。たくさんあるから一緒に食べましょう」
「かたじけない…」
私は陽菜から差し出された握り飯を一つ口にした。
「うん…やっぱりおかかは最高です。でも貴女が作る握り飯の方が断然美味しいですよ」
陽菜は照れくさそうに笑う。
「信長様…お帰りになったらお食事とっていただけるでしょうか」
「大丈夫ですよ。信長様は貴女の作るものが大好物ですから。しかし…」
陽菜の顔が曇る。
私は続けて言葉を発した。
「甘いものばかり召し上がるのは困ります。滋養あるものも食べていただがなくてはいけません」
「ふふっ…そうですね。お帰りになったら栄養あるものをたくさん召し上がっていただかないとです」
陽菜はようやく満面の笑みを浮かべた。
私はこの笑顔を守れた事に、満足感を感じてた。