第四十四話ゲスト

伊藤 愛 (いとう あい)

 

22歳。パッとしない人生と自分自身に飽き足らず嫌悪しており、自殺願望がある。22歳の誕生日に都内のホテルに部屋を取り、何らかの方法で命を絶とうと決心する。

 

 

 

第四十四話あらすじ

 

 愛は、子供の頃から自分の名前が嫌いだった。

物心ついて以来、いつも汚い言葉で罵り合い、喧嘩ばかりをしていた両親が、何故自分に愛という名前をつけたのか、分からなかった。

 

 父親は若い頃に職場のいさかいで誤って人を殺して何年か服役し、それがもとで定職にはつけず、日雇いで工事現場で働いていた。愛が生まれてからも、日銭を握りしめては毎日安酒場を飲み歩いた挙句、ある日居酒屋で酩酊して他の客と殴り合いの喧嘩になった。そして、殴られた拍子に店の前の道端でコンクリートの縁石に頭を打ち付けてあっけなく他界した。

愛が2歳の時だったから、父親の顔も良く思い出せない。写真を見せられても、それが父親だという実感は全く湧かなかった。

 

 母親はそれから昼間はコンビニやスーパーでアルバイトを掛け持ちしながら、夜はちょっといかがわしいスナックに立ち、なんとか愛を育ててきたが、スナックでの深酒と昼間の激務がたたって、愛が12歳の時にクモ膜下出血を起こし、突然他界した。

 愛は天涯孤独になった。

 

 それからは遠い親戚の家や児童施設を転々と回されたが、どこも長くは馴染めなかった。中学校には休みがちながらなんとか通ったものの、男性アイドルや近隣の男子校の美男子の話や、教師の悪口や友達の陰口に溢れたコミュニケーションについていけず、やがて陰湿ないじめも頻繁に受けるようになり、不登校になりがちになった。それでも学校の温情もあり、卒業証書だけは手にすることができた。

 

 それからというもの、高校には進学せず、都内では最低レベルの家賃の安アパートに身を潜めて複数のアルバイトをしながら人目を避けるようになんとか生きてきた。

もともと人とのコミュニケーションがあまり得意でない愛は、ぐれた輩とつるんで遊び歩いたりすることもなかった。服装にもあまり気を遣わず、どちらかといえば地味な容姿をして不愛想に徹していたので、アルバイト先で男性に言い寄られる事もなく、今まで人生の大半の時間をほぼ独りで過ごしてきた。

 

そして気付けば、22歳という年になっていた。

 私って何のために生きているのだろう…。時々湧き上がるその疑問への答えは、依然として闇の中のままだった。

 

 ある日喫茶店のアルバイトで、誤って年配の女性の高価そうなドレスにコーヒーをこぼしてしまい、客に散々罵倒された挙句、その直後に喫茶店の店長から解雇を言い渡された。手元にある貯金は10万円を切っていた。22歳の誕生日の一か月前のことだった。

 

 愛は決心した。

 「もうここいらで死のう…。もう誰にも愛されないし、誰を愛する事もないだろう。今なら自分が死んでも誰にも迷惑はかけない。生きる価値のない人間が、ひそかにこの世から泡のように突然消えるだけだ。次の誕生日を自分の人生の最後の日にしよう。そうすれば、すべての苦しみから解放されるのだから。」

 そして愛はアパートを解約し、ほぼすべての家財を処分し、自分の22歳の誕生日に都内のホテルの高層階の一室を予約した。

 

 そして愛は、死に方を真剣に考え始めた。

睡眠薬を過剰摂取する、青酸カリのような劇薬を一気に飲み込む、部屋に一酸化炭素を充満させる、ひと思いに太いロープで首をくくる、鋭利なナイフで手首を深く切る…、なんならその全部を同時にやってもいい…。あるいは高層階のバルコニーから思い切って飛び降りてしまおうか…。とにかく誰にも知られずに、ひっそりとこの世から消えてしまいたい…。

 

 そして計画を実行すべき当日が来た。

愛はスーツケースも持たず、持ち物は中くらいのトートバッグのみという軽装でホテルにチェックインをした。自殺志願者に見られないよう、出来る限り普通にふるまっていたので、特に怪しまれなかったようだ。

 

 ホテルの中庭はかなり広い日本庭園になっていた。

愛は荷物を置くと、その日本庭園へ出てみた。自殺の為の薬や用具は、ゆっくり買いに行けばいい。もうやる事はそれだけで、時間はいくらでもあるのだから…。

 

 愛は日本庭園へ出ると、日陰にあったベンチに腰掛け、死に方をどうしようか、とおもむろに考え始めた。部屋で死ぬか、飛び降りて死ぬか…。小一時間考えたが、なかなか答えはすぐ出て来なかった。

 

その時、ベンチから少し離れた場所に、黒いコートと帽子の紳士と、白い服を着た女の子が立っているのに気付いた。白い服を着た女の子、アンジュは、道端にしゃがんで、道端に落ちている赤い色をした何かを集めていた。

愛が目を凝らして見ると、それは道端に落ちた柘榴の花だった。

愛とふと目が合うと、アンジュは七、八輪集めた紅い柘榴の花を抱えて、愛の方に近づいてきた。そして愛にその花を差し出した。愛は少し驚いたが、それを両手の掌で受け取った。なんと妖艶で美しい花だろう、と思った。

 

 「その柘榴の花は、実になれずに落ちてしまった花たちです。」

突然声がしたので、愛が見上げると、黒いコートと帽子の紳士がいつの間にか愛とアンジュの傍に寄って来ていた。

 「それでもその花達は、それぞれで花のいのちを全うしているのです。萎びてしまうまでの間、ほんの一瞬でもあなたに美しいと思われて、この花達は幸せでしょうね。」

 愛は紳士が言った言葉を聞いて、思わず掌の中の柘榴の花を見た。そこにはとても美しい紅いいのちのかけらがあった。

 

 アンジュがニコニコしながら、愛の足元の地面を指さしている。

そこには無数の小さな蟻たちの群れが、自分達よりもはるかに大きな虫の死骸を必死に運んでいた。

気付かなければ庭園を通る人たちに踏みつぶされていしまいそうな道の片隅で、それは蟻たちが生きていくための、いのちをかけた無心の営みだった。

 

 次にアンジュが傍の草むらから、また何かを大事そうに手の中に入れて愛のところへ持ってきた。それは深く傷ついた小鳥だった。小鳥は羽根のたもとを何らかの事故で深くえぐられていて、息も絶え絶えでもう長くはない事が明らかだった。アンジュはその小鳥を愛の掌の上に載せた。数分後に小鳥は愛の掌らの上で、静かに動かなくなった。

 

 傍で見ていた黒い帽子とコートの男が言った。

「この小鳥は最後の瞬間まで、無心に生きようとしていましたね。それが全てのいのちの本能というものです。」

そして男は微笑みながら、一言だけこう言った。

「この星に、ひとつでも無駄ないのちが存在すると思いますか? 」

 

冷たくなった小鳥を手に呆然としている愛に、紳士とアンジュは、これ以上ないような優しい微笑みを浮かべた。そして二人揃って小さく会釈すると、静かにどこかへと歩き去って行った。

 

 それから5年後、愛は樹木医を目指して勉強をしながら、ベテランの樹木医のアシスタントをしていた。今日は都心の大きな街道に面した並木道で、脇をひっきりなしに通る無数の車の排気ガスが理由で枯れゆく寸前の、木々のケアをしていた。

 突然近くに人の気配を感じ、ふと振り向くと、驚いたことに、そこには5年前にホテルの日本庭園で会った、あの黒い帽子とコートの紳士が微笑んで立っていた。

 不思議な事に、二人の姿形や服装は、愛が5年前にあった時と、全く変わっていないように思われた。

 

 愛は思わずふたりのところへ駆け寄って、話し始めた。

 「あの…、5年前にあのホテルの日本庭園でお会いしましたよね。あの時私は…、実は…。」

 その時、紳士が、全てわかっていますよ、といった表情で優しく頷いた。

そしてアンジュが愛に両手の掌に乗せていた何かを差し出した。それはふたつの羽根だった。白い天使のような羽根の隣に、小さな小鳥の羽根がひとつ並んでいた。

 紳士が言った。

 「その小鳥の羽根は、以前あなたの掌で息を引き取った小鳥からの、あなたへの感謝のプレゼントだそうです。白い羽根は、この娘、アンジュからあなへのプレゼントです。」

 愛はアンジュからふたつの羽根を受け取った。

 

そして二人が軽く会釈をして歩き去って行こうとした時、愛は思わず声をかけた。

「またいつか、またいつの日か、あなた方にお会いできますか?」

紳士が答えた。

「私達はただの通りすがりの者です。時の流れが必要とするのなら、またお会いできるかも知れません。それがいつ、どこなのかは、わかりません。今は、貴方にも、私達にも。」

そして二人は静かな微笑みだけを残して、どこかへと歩き去って行った。