1月18日は母の命日です。
灰色の空に粉雪が舞い散る午後、すでに声の届かなくなった母に会いに行った日の記憶は今も曖昧な部分が多いのですが、
駅から病院まで20分ほど歩きながら、寒さに気づかず、病室について穏やかに眠る母の頬に手を当てた時、自分の手の冷たさに驚いたことは覚えています。
月日の経つのは早いもので、母と会えなくなってから31年の月日が流れていたのですね。
先日、過去ブログを整理していて、母への思いを書いた記事を見つけました。
読めば懐かしさが込みあげてきます。
母への供物にはなりませんが、私が忘れない為にもこのブログに記しておこうと思います。
母恋月…(前編)
時計が12時を過ぎ、母の日になりました。
そして今宵は満月の夜です。
私の座る位置からも月が朧気に輝いて見えています。
母の日のカーネーションが赤から白に変わってから15回目の母の日となりました。
幼い頃の思い出・・・。
東京の空にも月はありました。
京急電車が走る小さな駅にも賑わう商店街がありました。
小さな町でありながら、沢山の人で賑わい、人々の生活の基盤となりながら、どこかテーマパークのような要素を兼ね備えた街。
幼い頃の思い出を人様に語ることなど、以前の私では思ってもみなかったことですが、幼かった頃の記憶を蘇らせ、こうして語れるまでになれたのは他でもない先生の存在があるからだと思っています。
幼い頃の先生も似たような町で育ったからかもしれませんが、私達は出会う前から同じ景色が見えていたような気がします。
商店街には色々なお店がありました。
私は商店街の真ん中に位置する小さな靴屋の長女として産まれました。
住まいは狭い路地を入った店の裏手にありました。
商店街には幾つも細長い路地があり、流れ着いた他人同士が一つの群れとして暮らす住居スペースとなっていました。
玄関一つ、トイレ一つ、もちろんお風呂は銭湯通い、台所も共有の4世帯が住むアパートの六畳一間が、私達家族の住まいでした。
今で言えば一軒屋に4世帯が寄り添って暮らす、マッチ箱ほどの小さな世界。
父は茨城の田舎から17歳で上京すると、靴屋の丁稚となりました。
丁稚時代に暮らしていた部屋は、窓の無い3畳に3人で住んでいたと聞かされた時は、農家の本家で育った父がこんな暗く狭い部屋で暮らすなど、さぞかし多くの苦労があっただろうと思います。
それでも父は夢である自分の店を持つ為、懸命に奉公に励みました。
けれど「丁稚の身で給金をもらえるだけでもありがたいと思え…」と平気で人前で言うような親方の元では、誰よりも早く腕をあげたところで、到底、自分の店など持てません。
父はたまの休日を利用し浅草の問屋街で仕入れた品を闇で売り、僅かな給金を貯めて闇金融を始めたそうです。
それでも満足行かず、仕入れた品物を田舎で売りさばきながら、売れた代金で作物を買い付け、また作物を生産させてブローカーまがいの商売までしてお金を貯めたと聞いたことがあります。
毎日、過酷な労働の中で、父の唯一の楽しみは、母の勤める店に通うことでした。
母は親戚の叔母の経営しているおでん屋を手伝っていました。
兄弟11人、家族の多い貧しい暮らしの中で育った母。
母のお父さんは働かず、お母さんは貧乏が沁みついてしまっていたのか、感覚が麻痺してしまっていたようで親戚回りしながらお金を借りて歩いていました。
母のすぐ下の妹は、父親の妹(叔母)の家に貰われて行き、豊かな暮らしを送ります。
兄弟達は誰もが「私が(俺が)貰われっ子になりたかった」と親の前で平気で言うくらいですから、貧しさが心を蝕み、誰もが切なさの境地に達していたのだろうと思います。
でも母だけは、「おかあちゃんの傍がいい」と思ったそうです。
母は成長するに連れ器量良しとなると、おでん屋の看板娘となり、叔母さんにもお客様にとても可愛がられたそうです。
と、母は言っていましたが、 私の知る限りこの叔母は、舌切りスズメの昔話に出てくる意地の悪いおばあさんよりもっともっと意地悪そうに見えました。
母は幼い頃から歌が上手で、歌を唄うのが好きだったそうです。
長年、ドサ回り一座で生計を立てていた父方の遺伝かもしれませんが、普段は人を押しのけて話すことを嫌う母でしたが、芸事になると途端に人が変わったようになり、突然、唄ってと言われても動じることはありません。
おでん屋と言っても酒場である以上、男性からの誘いも多く、十代の母には好ましい仕事ではなかったようですが、叔母から出してもらう三味線、長唄のお稽古賃が、当時の母にとっては捨てがたかったのでしょうね。
叔母が稽古賃を出したのも母の為と言うより商売だと思うのですが、でも母は私のように人の心の裏側を探る人ではなく、稽古に行く時間が嬉しくて、叔母に感謝していたそうです。
店に出る時はいつも着物を着て、三味線を弾き、長唄を唄う母。
流しがくれば、お客さんのリクエストに応え歌謡曲も唄いました。
そんな母に惹かれた父は、毎晩のように通うようになったそうです。
けれど店を立ち上げる資金を貯める身にとって、毎晩の酒代はかなりの痛手です。
だから父がいつも決まって注文するのは、ビール一本とおでんのがんもとちくわぶだけだったそうです。
母の店に通うには金銭的苦労もありましたが、父のライバルは多く、銀行員、大会社に勤めるサラリーマン、公務員と、どの人も結婚条件にはもってこいの好青年ばかり。
父は給金が入ると問屋街で買った珍しい菓子を叔母の元へこまめに付け届けをし、やっと店のカウンターの一番奥の常連席(母の前)に座れるようになるまでには、相当の時間と苦労があったようです。
それでも母は、父が店に来たその日から、ずっと父が好きだったそうです。
叔母にわからないように、こっそり付き出しの量を増やしたり、一番、汁の沁みているがんもをこっそり隠して出したりしてね。
そして父も同じ・・・。
叔母の付け届けとは別に、おあいそ(会計)する機会を見計らって、こっそり母だけに雷おこしや煎餅を渡す。
お互いに惹かれあっているのがわかりすぎるのに、それでも父は自分の店を持つ目処が立つまでは、一切の愛を告げることなく、黙って母を見つめる日々だったそうです。
だけど母にも父の心が見えていたのでしょうか?
父との約束など何一つないのに、それでも叔母に勧められる男性とのデートで、どんなに美味しいものを食べさせてもらっても、観たかった映画に誘ってもらっても、心は晴れることなく父の顔だけが浮かんでくる。
何度も持ちかけられる裕福な縁談話にも、母の心は動かされることなく、ただ父だけを信じ、その日を待っていたそうです。
母の夢は、父のお嫁さんになること。
父の努力の介あって、目出度く靴屋を出すことことが出来ました。
そして父にとって店以上に念願だった愛する人をお嫁さんに迎えることが出来ました。
母の花嫁道具は大きなアルミ鍋一つでした。
家が貧しかったので、兄弟達もまともな結婚式を挙げることができなかったと聞いています。
父の生まれ育った家は旧家で、何代に亘り町長を勤めた家でもありました。
父は、母が田舎から出てくる自分の親戚に辱めを受けないよう、店の資金とは別に結婚資金を貯めて、立派な式を挙げ、品数多く引き出物を持たせて帰したそうです。
開店資金と結婚式の費用を同時に貯めたのですから、並大抵の努力ではなかったと思います。
でも母は父の苦労を一切知らずにいたそうですが…汗
弱音や愚痴を吐かない父だから、いつも冗談ばかりいって母を笑わせます。
そのくせ「お前は呑気でいいなぁ~」というのが父の口癖でしたが、でも父は母の笑顔を見るためなら、どんなことだってできる人でした。
本来の父は頑固者です。
それにとても厳しい人だし、怠け者が大嫌い。
でも父にとって母だけは、いつも特別な存在でした。
母は嫁入り道具の鍋一つでした。
なけなしの金でお母ちゃんが買ってくれた鍋をとても大切にし、得意のおでんを煮込みます。
父の大好きながんもとちくわぶをいっぱい詰めたアルミ鍋。
お鍋の底が焦げてしまっても、母の気持ちはいつも新鮮だったと思います。
父と母はいつも一緒に店に出ていました。
母はとてもヤキモチ妬きな人で、父が女性客と楽しそうに話をしていると、プイッとそっぽを向いて外に出て行ってしまいます。
女房思うほど亭主モテずでありながら、それに母の方が何倍も男性客からモテるのに、子供のように拗ねる母を誰よりも愛おしいと感じていた父。
「うるせいやつら」という漫画がありますね。
私には母がラムちゃんそっくりに思えたものです。
だからと言って母が女性客に嫌われるか?と思えばそうでもなく、お客様はみな地元の人ですので、誰もが母の純粋さに笑みを捧いでくれるほど、日々愛を確かめあう二人に共感してくれていたのだろうと思います。
だけどね、こんなこと・・・我が家だけの特別なことではなく、商店街に暮らす周りの夫婦もみな同じようなものでした。
どこの店に行っても夫婦は愚痴りあい、惚気合い、笑い合い・・・そして、心和み・・・暮らす街。
ふるさとから遠く離れた小さな街で、たまたま出会った他人同士が肩を寄せ合い生きていく、そんな優しい街でした。
一緒に店を持ち、共に商売をする夫婦にとって、衣食住、金銭、時間、そのどれをとっても二人の共有財産であるのです。
だから商売人夫婦は、心中する覚悟がないと一緒にはいられません。
ただ誰かと暮らすだけなら、同じアパートの一つ屋根に住む偽家族とも暮らせますが、共に生きるということは、愛する者同士がお互いを信じあい、愛することで満たされていくのです。
貧しさや苦しみに耐える日があっても、共有する時間が心の豊かさとより、日常生活を実りあるものにしていくのが本当の夫婦のあり方なのでしょうね。
ある日、心貧しき者が「愛では飯が食えないわよ」と母に言いました。
けれど普段内気な母が引き下がることなく「パパがいないならご飯も美味しくない」と言いました。
母は父の傍にいられるだけで、本当に幸せだったのだろうと思います。
何度も大病を患う父でした。
命を繋いだものは縁と運…そして生きる気力と執着。
母は父に新たな病名が付くたび、父を失うことの恐ろしさに心を震わせていました。
「人にはどれほどの寿命があるか?わからないけれど、でも分けられるのなら、パパにあげたい…」と何度も願ったそうです。
そして誰よりも母を思う父は、「俺にもしものことがあったら、お前がママを守ってくれ・・・」 と病を背負う度に私に言いました。
父の言葉が命令だったのか?それとも願いだったのか?
幼い私にはよくわからなかったけれど、私が初めて店番を手伝ったのは、幼稚園の時からでした。
私には3つ違いの弟と九つ違いの弟がいます。
本来なら男である弟に申し付ける引継ぎを、女の私に言うなんて納得はいきません。
「お前は人より少し賢い。だから俺が居なくなったらお前が家族を守ってくれ」
男として生きる道は、どんな生き方であるべきなのでしょうね。
でも男以上に賢く生きなくては…。
幼い少女には荷が重い課題ですが、「そうだ、私には守るべき者達がいるのだから頑張らないと…」と思い込まされるのですから、日々の暮らしの中で父の願いを受け継いでいたのかもしれません。
後編につづく…。