鏡の中のあなたと私

鏡の中のあなたと私

今までの人生を振り返りながら、
鏡の中のあなたと私のこと、つらつらと綴ります。

またまた先生のブログからのリブログです。

 

自分のブログでありながら書きたいことが浮かびません。

 

浮かばないというのは少し違うかな?

 

もちろん、先生の病気のことを考えない日はなく、あれこれと浮かんではくるけれど…、

 

暗雲立ち込める日もあれば、雲の隙間をすり抜けて光差し込む日もある。

 

まるで風に吹かれる雲波のように、瞬間的に姿、形を変えていく心模様に着いていけないというのが近い表現かもしれない。

 

大切な人の命の灯(ともしび)を消すまいと祈りつつ、忽然と襲ってくる無力さに成すすべを失う時もある。

 

もしも私がお地蔵さんになれるなら、すぐに手を差し伸べ苦しみのない世界へと連れて行ってしまうかもしれない。

 

だけど、懸命に今を生きる先生にとって、決して好ましいことではなく、たとえもがき苦しんだとしても、生きることに全うでありたいと願う姿勢に対し、私には生き様を見つめ続ける使命があると思っている。

 

それは仏の世界に生きる如来や菩薩も同じで、見守られている

事こそが真の救いなのではないと、最近、観音様に逢う度、思う。

 

もちろん千手観音のようにあれこれと手を変え品を変え差し出す道具はないけれど、私にも多少の知恵と動ける体がある。

 

全ての人を幸福に導くことは出来ないけれど、「先生の笑顔を守るなら、あたいに任せときっ!」と、弁天様の如く、勇ましく片袖まくって言える自分でありたいと常に念じている。

 

先日、先生の家からの帰り、自宅の駅に着くと小雨が降り出した。

 

駅まで自転車で来たので明日まで置くのも躊躇われたので、濡れながら帰ることにしたけれど、一つ目の信号待ちをしていると、雨は本降りへと移り変わっていった。

 

髪を伝う雨の雫が涙のように頬を伝うと、急に現実が襲ってきて悲しみに埋もれてしまいたいと思いながら、

 

時折変わる信号機の色もロクに見ないで、ただ遠くを見つけていた。

 

ふと気が付くと、雨は止んでいた。

 

それでも雨粒が弾ける音がして上を見上げると、灰色の空まで透き通るビニール傘が見えた。

 

50歳前後の女性が私に傘を差しかけてくれていた。

 

彼女の肩は、傘から半分出てしまっていたので濡れていた。

 

私は急なことに慌てて…

 

「有難うございます。でも、帰るだけなので大丈夫ですから、どうぞご自身で差して下さい」と、しどろもどろに変な説明をしてしまった。

 

それでも、尚、私のことを気遣い、傘を手向けてくれる女性の優しい瞳に見つめられると遠い日のことが思い出された。

 

まだ、ダスキンの仕事をしている頃、スコールのような天気雨の中、スーパーの入口前に敷く特大サイズのマットを取り替えていると、一瞬のうちに雨は止った。

 

振り返ると…

 

私の背中を包み込むように、小さな小さなおばあさんが大きなビニール傘を翳してくれていた。

 

光に包まれた円傘は、まるで光輪のように神神しく、小さなおばあさんは、まるでお地蔵様が天から下りてきたようだった。

 

お礼を言うと…

 

「今は大変だろうけれど、まだ若いのだから頑張ってね」

 

その頃には土砂降り雨は、嘘のようにピタリと止んでいた。

 

そして、濡れてしまった服のお詫びと改めてお礼に伺いたいと伝えると…

 

「また、いつか会えるわよ…」と言って夕陽の向こうに帰っていった。

 

あの時も未来を案じて哀しかった…。

 

普段から小生意気なことを言いながら、またいつか…と、お地蔵様に逢える日を信じている自分がちょっぴり恥ずかしい。

 

それでも…

 

雨が降るとお地蔵さんのことを思い出しては、今も何処かで私のことを見守ってくれているのではないかと思うと心強い。

 

お地蔵様…ありがとう、感謝しています。

 

美月

 

 

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