ナカちとゃん星になる。その6 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。



【DHC】2019/9/3(火) 百田尚樹×門田隆将×居島一平【虎ノ門ニュース】を聞きながら、etekoの創作ノートを書き残しておこう。




(仮)通夜は、三宝堂さんの社屋で行われた。
ナカちゃんは、8月22日の13時22分に星になった。


直接の死因は、20日に引き起こした急性心筋梗塞だった。
急性心筋梗塞を発病してから、死亡までは、2日間は、こっちの世界にとどまってくれた。

死因は、急性心筋梗塞となってるけど、熱が下がらいので、2階の病棟に移して、治療と検査をしたら、重度の肺炎にもなっていた。

胸部のレントゲンを撮って分かったみたい。
そう言えば、胸部のレントゲンを撮ったのは、日立総合病院に緊急入院した時と、西山堂病に転院してきて、胃婁の切開をした時だけだよ。

ナカちゃんは脳梗塞の後遺症で、3年3ヶ月の間、病院のベットに寝たっきりだったよ。
右半身がマヒして、言語機能もマヒしてた。
言葉を喋れないから、自己表現ができないよ。

自分の意志を喋れないよ。
差別用語?の「おし」状態だよ。

それでも、目や耳は、脳姑息で倒れる前と変わらないようだった。
病室にテレビを置いてもらうと、よくテレビを見たり、聞いたりしてた。

喜怒哀楽も、顔の表情や「うっ、うっ、」って言う唸り声で意思表示してた。

でも、言葉がしゃべれないから、呼吸が苦しいとか、気分が悪いとかのナカちゃんの心の中は分からなかった。

8月19日は、日立高鈴GCでゴルフだった。
その帰りに、桜川のボロ屋敷の反対方向の常陸太田市方面に向かった。
月曜日は、西山堂病院に行くようにしてる。
週一で、ナカちゃんに会いに行く。

3回の病室に入ると、ナカちゃんは寝てた。
この日は、起こさずに、早めに帰った。

先週は、元気だった。
4人部屋の病室に入る前には、病室の横にあるトイレに入る。
etekoは、トイレが近いんだなあ。

ここのトイレは、雨水をつかってる。
石鹸水を使って、手を洗う。
高鈴GCで、お風呂に入ってきたばかりなのに、手に石鹸水を垂らすして、手もみをすると、液体は、汚くにごる。
いつも思うよ。
人間の身体は、直ぐに汚れるんだなあ。
汚れてるのが通常なんだなあ。
ペーパータオルで手を拭く。

西山堂病院に行った時の、いつものルーチンだなあ。
一階から3階まで、大きな部屋のエレベーターに乗って上がる。
エレベータの扉が、開くと目の前は、ナースセンタのスペースになってる。

目の前は、カウンターになってる。
そこに、来訪者の名前や健康状態を記するノートが置いてある。
そのノートに、etekoの名前と、患者の名前を記入する。
そして来訪した時間も書くようになってる。
そこには、小さな目覚まし時計が置いてある。
その時計を見て、来訪時間を記入する。
小さな箱に、首からたらす入門許可証がビニールのケースに入って、10ケくらい置いてある。
その許可書には、001から、ナンバーが振られてる。
手にした入室許可証のナンバーも、ノートに記入する。


ナース・センターのスペースは、周りを低いパーテンションで囲われてる。
奥の方が天井まで、届いてる。
そのすべすーの中に、医師や看護師用の机が、6,7台置かれてる。
その机の上には、PCのモニターが置かれてた。
ここに来た時は、中で4,5人の看護師が、PCに向かってる。

入院患者の状態を入力してるのだと思った。

目が合った時には、挨拶をした。

もう、2年6か月も、西山堂病院に来てるので、顔なじみになってる看護師さんも沢山いる。

19日に来た日から、ナカちゃんの身体に、異変が起きてたみたい。
20日には、熱が下がらなくなって、血圧も異常値になったみたい。

直ぐに、2階の治療病棟に移された。
この時には、ナカちゃんは、急性心筋梗塞を発症していた。
検査の時点で、胸部のレントゲンを撮ったら、重度の肺炎になっていた。
肺の炎症が、体温を上げたみたい。
肺の機能は、弱っていて、水もたまりだしていた。
肺の中にできた水を、肺から上手く排泄できなくなっていた。

肺炎が急性心筋梗塞を引き起こしたんだとも思った。
ナカちゃんは、91歳だよ。
3年3ヶ月も、脳梗塞の後遺症で病院のベットで寝ったきりだよ。

肺炎になるのもしょうがないなあ。ショボーン




8月27日(火)は、11時から、金沢葬祭場で、ナカちゃんの告別式だった。


9時からは、三宝度さんからの出棺だった。
前日は、三宝堂さんで、(仮)通夜をやった。

この時には、桜川のボロ屋敷の第1期生の寮生だった3人の爺さん達が来てくれた。
3人の年を聞いたら、80代の前半だと言ってた。
来てくれたのは、鈴木さん、小林さん、上野さんだった。


小林さんが、「俺が日立に来たのは、昭和36年だよ。」、と言ってたのが耳に残った。

etekoの桜川のボロ屋敷は、昭和35年に建てられたんだと思った。
西暦だと、1960年なのかなあ。

ひぇー、築60年になっちゃうよ。

おおー、桜川のボロ屋敷は、親父が30代の時に建てたんだ。びっくり


etekoが生まれた時は、両親は、日立鉱山の下の方にある新町と言う所で、米屋をやってた。
今は、宮田町になってる。
新町は、日立鉱山の方から流れてくる宮田川に沿って発展した街だよ。
宮田川は、神峰山と高鈴山の二つの山に挟まれてる。
宮田川は、その谷底を流れる川のようになってる。

新町を出た辺りから扇状地になってる。
山の方から、海までの直線距離は、2キロもないかもしれない。
日立市の地形は、山が海に潜り込んでるような地形になってる。
山からは、いくつかの小さな川が太平洋に流れ込んでる。
そして、山から出たところに扇状地の平らな土地が広がってる。
平らと言っても、山側に向かって傾斜してる。

太平洋との海岸線は、20メートルくらいの断崖になってる。
太平洋に流れ出る川の付近が、割に広い砂浜になってる。
そこは、海水浴場や小さな漁港になってる。

断崖の下は、狭い砂浜だったり、波が断崖に直接あたってる場所もある。

新町の上の方には、鉱山病院って言うのがあったなあ。
etekoは、そこで生まれたような気もするんだけど、両親から聞いたことはない。
それとも、借家に産婆さんが来て、取り上げられたのかあ。

etekoの出生の秘密は、誰からも聞いてない。
もちろん、覚えてもいない。


そんな新町で、生まれ育ったetekoは、昭和35年に、多賀地区の桜川のボロ屋敷に引っ越してきたんだなあ。

両親は、新町から多賀地区に、引っ越すのに考えたみたいだ。
米屋の店舗を、多賀地区に移したら、固定客は、ゼロだよ。
新町なら、固定客ばかりで、枷けたけど、新しい土地では、どうにもならないよ。

それでもって、バカでかい木造の二階建ての家を建てたよ。
部屋を貸して、賃貸でしのごうと思ったみたい。

その頃の多賀地区は、国分工場と多賀工場が出来て発展中だったよ。
国分工場は、重電機の製品を製造してた。
多賀工場は、家電成否を製造してた。

この頃の日立製作所関連の工場は、全国から金の卵と呼ばれる若者たちを募集してたよ。
でも、多賀地区には、急速な発展に追いつくような社宅や社員寮がなかったよ。
それよりも、住宅があんまり建ってなかったよ。


etekoの桜川のボロ屋敷が建った昭和35年の頃は、家の周りは、田んぼや畑だったよ、
家の前の車道は、砂利道だったし、玄関の前の側溝は、用水路だったよ。
きれいな水が流れてたのを覚えてる。
川底が見えたよ。

何しろ、家から海側に1キロくらい離れてる国分工場の建屋軍が見通せたよ。
てぇー事は、太平洋の水平線も見渡せたのかもね。

桜川のボロ屋敷を建ててすぐに、国分工場の社員寮になるのが決まったみたい。
県外から来た男子社員の量になることになった。

最初は、一部屋に2,3人で泊まり込んでいたような気もする。
最初の頃は、20人近くの他県から来た新入社員が、桜川のボロ屋敷に寝泊まりしてた。


東北地方の出身者が多かったけど、広島とかの関西地区の方から来た人もいたなあ。


そんな寮生だった第一期生の鈴木さん、小林さん、上野さんが、ナカちゃんの(仮)通夜に来てくれた。

この人達は、地方から日立製作所の国分工場に、昭和36年に入社したよ。
それから、日立市に留まり、定年まで会社勤めして家庭を築いてるよ。
今は、子供も孫もいる爺さん達だよ。


etekoのボロ屋敷には、何人の人が寝泊まりしてたんだろう。
3桁は行ってるかもね。
その中でも、日立市内に留まってる人は、一桁しかいないなあ。ショボーン




三宝堂さんを、9時に出棺。
出棺には、高萩の叔父さん夫婦と子供達の5人。
父方の叔母さんの息子。
etekoと妹。
鶴岡の叔父さん。

が参加した。
親族の男の人達は、六尺さんを引き受けた。

etekoは、ナカちゃんの遺影を抱えて、霊柩車の助手席に乗らないと行けなかった。

ナカちゃんの棺を六尺さん達が霊柩車に運ぶ。
乗せる前に、六尺さんが、棺をぐるぐると、3回廻した。
出棺に立ち合ったのは、数回しかない。

棺を霊柩車に乗せる前は、ぐるぐる回すんだと思った。








金沢葬祭場の症ホールの祭壇。
告別式は、家族葬で行った。
新聞も出さなかった。

参列者は、30人くらいだった。

91歳のナカちゃんの告別式は、こんな感じで始まった。