百貨店を経営する中合(福島市)は2月28日、福島店の二番館を8月末に閉館すると発表した。震度6強以上の地震が発生した場合、入居する平和ビルが「倒壊や崩壊の危険性が高い」と福島市の耐震診断で判定されたためだ。中合と平和ビルは2015年から営業の継続を前提に耐震補強工事の実施などを協議してきたが、資金面などの問題があり、合意に至らなかった。中合撤退後の平和ビルがどうなるかについては、現時点では未定だ。
中合福島店はJR福島駅東口にある。福島市では唯一の百貨店で、なおかつ最大の商業施設でもある。現在は辰巳屋ビルと平和ビルの2館体制で営業している。店舗面積は前者が1万5169㎡、後者が1万1214㎡で、計2万6383㎡。両者は4~6階部分が空中回廊でつながっている。その間にある広場は「ツイン広場」と呼ばれ、イベントなどに活用されている。空中だけでなく、地下1階部分もつながっている。

中合は1830年に創業した。2代目中村治郎兵衛が福島市荒町に蔵を構え、太物行商を始めたことが発端。1874年に中村呉服店を開業し、正札販売を始めた。1938年に百貨店業を開始。1973年に大町から駅前の辰巳屋ビルに店舗を移転した。旧店舗は大町パルクとして営業を継続(1984年に閉店)。オイルショックの時代に経営が悪化したため、1978年に大手スーパーのダイエーと資本提携し、その傘下に入った。1993年に会津中合(会津若松市)、翌1994年に清水屋(酒田市)と合併し、3店舗体制になった。
中合とライバル関係にあったのが、旧山田百貨店だ。1928年に山田英二が伊達郡保原町にあった呉服店を再興し、1930年に店舗を福島市に移転。1943年に閉店したが、1948年に本町で営業を再開した。ここから百貨店業としての道を歩み始め、1973年に駅前の平和ビルに移転した。同年に大手スーパーのニチイ(マイカルの前身)と資本提携し、その傘下に入った。1978年にニチイの支援を受けて、カネ長武田百貨店(青森市)、イチムラ(長岡市)、丸光(仙台市)、小美屋(川崎市)と共に百貨店連合を設立し、仕入関連業務を集約した。

百貨店連合は1985年に前述した5社の経営を引き継ぎ、社名をダックシティに改めた。これに伴い、旧山田は店名をダックシティ山田に変更した。1993年に福島ビブレと改称し、伝統ある山田の名前は消滅したが、平和ビルでの営業は継続した。中合との間にある広場は、それぞれの頭文字から「山中広場」と呼ばれた。
しかし、1996年に「平和ビルから撤退し、新設の曽根田SC(ショッピングセンター)に移転する」と表明した。JR福島駅の北側約500㍍にある旧東開工業跡地に積水ハウスが建設するもので、店舗面積は中合福島店を上回る1万6261㎡。ビブレのほか、複合映画館「ワーナー・マイカル」がテナントとして入る。車社会に対応するため、約1000台収容の立体駐車場も併設するとした。

これにより、平和ビルはキーテナントを失うことが確定した。代わりのテナントを見つけなければ、JR福島駅東口に巨大な空き店舗が出現することになる。危機感を抱いた福島駅前通り商店街振興組合や福島商工会議所は、中合に「平和ビルのテナントになってほしい」と要請した。中合は「隣接地に巨大な空き店舗ができると、駅前通りの地盤沈下が加速する」と判断し、平和ビルへの出店を決断。辰巳屋ビルと合わせて、2館体制にすることを表明した。
「平和ビルが空き店舗になった場合のマイナス面は大きい。中心市街地の商業集積を維持し、郊外の大規模店との綱引きに勝たなければならない。地域に根ざした百貨店として、地元の要請に応えるのが使命だと判断した。規模拡大がそのまま業績拡大につなげるのは難しいが、きめ細かな努力をして売上を伸ばしたい」(遠藤孝社長)
遠藤は福島市出身。福島商業高校を卒業して、大手スーパーの長崎屋に入社した。忠実屋に転じて専務に。1994年に忠実屋がダイエーに吸収合併されたため、ダイエー常務になった。1995年にダイエー系列の中合に派遣され、社長に就いた。福島市出身だったこともあり、福島ロータリークラブ会員、福島商工会議所常議員も務めていた。平和ビルへの出店は1997年3月の取締役会で内定し、ダイエー本社の了解を得た上で正式に発表した。

中合は増床に合わせて、大規模な改装を実施すると表明した。投資額は約40億円。辰巳屋ビルと平和ビルを一体化するため、前述した空中回廊の設置も決めた。通路の幅は4㍍。辰巳屋ビル側は従来通りに婦人層を対象にした売り場とし、平和ビル側は書店や食品など幅広い層を対象にした売り場にする。売り場の名称は一般公募の末、辰巳屋ビル側を一番館、平和ビル側を二番館とした。
目標の売上は220億円に設定した。1996年度の売上は約170億円だったので、増床で50億円の売上増を見込んだことになる。

福島ビブレは移転に備えて、1997年11月24日に平和ビルでの営業を終了した。原状回復をした上で撤退。その後は中合が店内の改修に着手し、自社のスタイルにマッチする売り場に改装した。
1997年度の売上は、中合が159億1400万円
、福島ビブレが58億8800万円だった。福島ビブレの売上が50億円台に落ち込んだのは、移転準備のため11月25日から2月末まで営業を休んだからである。通年で営業していれば、売上は70億円前後になったと見られる。

2館体制になった中合は、1998年3月1日に二番館、1週間後の8日に一番館がそれぞれオープンした。一方、曽根田SCに移転した福島ビブレは、中合二番館と同じ3月1日にオープンした。
福島民報は、3月2日付の社会面で次のように報道した。
「移転新築されたビブレはオープンの午前9時前に100㍍を超す列ができた。マーチングバンドのファンファーレと、カウントダウンの声に合わせてテープカットが行われたあと、堰(せき)を切ったように買い物客が店内に流れ込み、お目当ての商品を探した。増床で誕生した中合二番館は1時間後の午前10時にオープン。こちらは8日の一番館開店をグランドオープンと設定しているため大きなイベントは組まなかったが、買い物客は続々と来店し、従業員は応対の忙しさに嬉しい悲鳴をあげていた」
中合は、8日にグランドオープンのセレモニーを行った。社長の遠藤と買い物客ら6人がテープカットを行い、新生・中合の誕生を祝った。開店前に約1000人が並び、開店と同時に一番館と二番館になだれ込んだ。一番館では「九州3県『福岡・佐賀・長崎』の物産と観光展」が開催された。

【写真】
・8月に閉店する中合福島店の二番館
・JR福島駅東口にある中合福島店の一番館
・中合跡地(大町)に建設されたホテルサンルートプラザ福島
・旧山田百貨店(本町)の建物は福島学院大学駅前キャンパスに


大阪市の学校法人「森友学園」(籠池泰典理事長)への国有地売却問題がマスコミを賑わせている。火付け役は朝日新聞で、2月9日付の社会面に「学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か」という見出しを掲げた。本文は以下の通り。
《財務省近畿財務局が学校法人に払い下げた大阪府豊中市内の国有地をめぐり、財務局が売却額などを非公表にしていることが分かった。朝日新聞が調査したところ、売却額は同じ規模の近隣国有地の10分の1だった。国有地の売却は透明性の観点から「原則公表」とされており、地元市議は8日、非公表とした財務局の決定の取り消しを求めて大阪地裁に提訴した》
この報道を受けて、財務省は一転して売却価格を公表した。随意契約により1億3400万円で売却。不動産鑑定士はこの土地を9億5600万円と査定したが、「地下に大量のゴミが埋まっている」として、撤去費8億1900万円などを差し引いたという。鑑定価格の14%で、近隣の国有地に比べると破格の安値だった。財務省は「適性価格だった」としているが、積算根拠が曖昧なので、国会で野党に追及される事態になった。

国会で答弁にあたっているのは、財務省理財局長の佐川宣寿である。野党の質問にまともに答えると、財務省の失策が露呈すると考えているのだろう。質問をはぐらかしたり、「交渉記録を廃棄した」などと答弁し、嵐が過ぎ去るのをひたすら待つという態度をとっている。
2月24日の衆院予算委員会では、民進党の福島伸享(北関東ブロック)と次のようなやり取りをした。
福島「『どうやったら安くできるか』という森友学園側の意向にそって、国民の財産である国有財産を、どんどん安くしているとしか思えない。これらのスキームは、森友学園だけではできない。間に入った不動産コンサルタントや弁護士でもできない。麻生(太郎)大臣はいつも『手続きは適正だ』と言っている。確かに法令にのっとった手続きで、違法な手続きは今のところ見られない。針の穴を通すように、それぞれの制度の例外を上手く活用している。それは役人じゃないとできない。この交渉、鑑定をやったときの理財局長はどなた?」
佐川「恐縮ですが、鑑定というのは、いつのですか。貸付のときの鑑定、何年か前、ちょっと確認をさせてください」
福島「8億円の土砂除去のために必要だという積算、異例中の異例のやり方をやったときの理財局長はどなた?」
佐川「手元に資料がございませんが、昨年度…(平成)27年、すみません、大至急、今、調べます。すみません」
速記がストップ
佐川「前々任者は中原(広)、えっと、すみません、昨年の夏からが私で、その前の27年夏から28年夏は迫田(英典)…」
福島「なぜ、そんな演技をするんですか。今日参考人招致をしてるんですよ。なんで皆さんは、そんなに役所をかばうんですか。前任者の名前も分からない。しかも今日参考人として招致をしていて、与党の皆さんが来るのを断っている。それは、そのときの理財局長だから呼んでるのに、知らないとか通告がないとか、あり得ない。どうしてそこまで迫田さんの名前を出すことを嫌がるんですか」

迫田はこの問題のキーマンである。野党は「迫田・現国税庁長官と籠池理事長の2人を国会に参考人として招致しよう」と提案している。しかし、自民党が反対しているため、実現の見通しが立っていない。2人が国会で知っていることを話すと、自民党にとっては不都合なことが起こるらしい。
佐川が理財局長になったのは2016年6月17日のことである。その前は関税局長、その前は国税庁次長だった。土地の売買契約は同年6月20日に締結されたので、佐川自身は全くと言っていいほどタッチしていない。当事者と言えるのは前任者の迫田だ。ただ、現在は佐川が理財局長なので、批判の矢面に立たされている。一方で財務省という組織を守らなければならないので、過去の経緯を調べて、洗いざらい公表するわけにもいかない。そこが佐川のツラいところである。

佐川の経歴は、ネットで検索すると出てくる。1957年生まれ。福島県出身。1982年、東京大学経済学部卒業。同年、大蔵省入省。
佐川は福島県、前任の迫田は山口県出身である。両県は戊辰戦争の因縁があるため、ネットの掲示板には「また山口が福島に迷惑をかけているのか(笑)」などと揶揄する書き込みも散見される。
佐川の理財局長就任が決まったとき、福島民報と福島民友新聞は顔写真付でその経歴を紙面に載せた(2016年6月15日付)。
「理財局長。さがわ・のぶひさ。東大卒。1982年大蔵省。国税庁次長を経て、15年7月から関税局長。58歳。いわき市出身」
佐川はいわき市出身で、いわき応援大使も務めている。『広報いわき』2016年6月号では「いわきに生まれ、平一小・平一中で学んだこともあって、いわき応援大使になりました」と述べている。


平一小と平一中は、いわき市立だ。そのまま福島県内の高校に進学したのであれば、校名を公表するはずだ。しかし、佐川が公表したのは、小学校と中学校の校名だけだった。つまり、県外の高校に進学したということだ。
佐川が東大を卒業したのは、前述したように1982年である。留年しなければ、東大に入学したのは1978年ということになる。念のため、同年春の『サンデー毎日』を確認してみた。同誌は、東大の全合格者の名前を誌面に載せるからだ。
1978年4月2日号をめくると、「文科二類」の欄に「佐川宣寿 東京」とあった(154頁の上から5段目)。佐川は東京の高校を卒業して、東大に入学したのだ。その年度から判断すると、合格までに2浪したことになる。
仮に佐川が磐城高に進学していたら、どうなっていただろうか。磐城高は1978年に9人の東大合格者を出した。うち5人は現役だった。前年の1977年は10人の合格者を出した。うち5人は現役だった。磐城高に進学しても佐川は東大に合格しただろうが、15歳の時点では東京の名門進学校に通った方が確実と判断したのだろう。

【写真】
・朝日新聞(2月9日付)の記事
・いわき応援大使を務める佐川理財局長
・『サンデー毎日』1978年4月2日号の表紙(上)と「佐川宣寿 東京」の文字

JR福島駅東口から北に向かって800㍍ほど歩くと、福島市曽根田にたどり着く。ここは映画館の密集地帯で、フォーラム福島の3館(計6スクリーン673席)とイオンシネマ福島(7スクリーン1360席)の2つが存在する。両者の距離は約200㍍。フォーラム福島は、山形県出身の長沢裕二が市民の出資を募り、1987年に開館した。一方のイオンシネマ福島は1998年、ワーナー・マイカル・シネマズ福島として開館。資本力と設備で劣るフォーラム福島は競争に敗れて閉館するのではないかと言われたが、どうしてどうして、現在も営業を継続している。
フォーラム福島の3館は、福島市中心部と飯坂温泉をつなぐ飯坂街道沿いにある。その1つであるフォーラム福島1・2は、外観が白いのでよく目立つ。ファッション関係の店かな?と思うような雰囲気を漂わせている。開館当時は映画館を取り巻く環境が厳しかったが、マニアックな作品も積極的に上映し、固定客を掴んだ。これで手応えを掴んだ長沢は、1992年に2館目(フォーラム福島3・4)、1997年に3館目(フォーラム福島5・6)をそれぞれ開館した。

1月28日午前8時30分、フォーラム福島1・2の入口前の歩道に行列ができた。冬の朝とあって、ミシュランのビバンダム人形のような厚着をしている人が多かった。半分ぐらいの人はマスクをしていた。じっとしていると身体が冷えるので、両足を小刻みに揺すっている人もいた。
私もその行列に加わった。安孫子亘監督の映画『知事抹殺の真実』を見るためである。他の人も目的は同じ。指で「1人、2人、3人…」と数えると、私は列の14番目だった。入口のドアが開くのは午前8時50分なので、あと20分はこのまま外に立ち続けなければならない。

私の前に並んでいたのは45歳ぐらいの男性だった。カラフルなニット帽を被り、肩からキヤノンの一眼レフカメラをぶら下げていた。会津若松市出身で、現在は仕事の都合で仙台市に住んでいるという。
「昨夜、安孫子監督のフェイスブックを何気なく開いてみたんです。そしたら、28日から福島フォーラムで『知事抹殺の真実』の上映が始まると書いてあったので、『行ってみよう』と思ったんです。初日は安孫子監督と佐藤栄佐久元知事が挨拶するというので、写真も撮影したい。写真は『どこそこに行ってきた』という証明になるので、行き先々でよく撮影しています。ただ、この映画は26日、仙台の桜井薬局セントラルホールで先行上映されていたんです。私はそれを知らなかった。『もっと早く安孫子監督のフェイスブックを開いていれば…』と後悔しました。仙台で見ていれば、土曜の朝、早起きしてわざわざ福島に来る必要はなかった。せっかくなので、映画を見た後は会津若松の実家に寄っていきたいと思います」
安孫子は北海道小樽市出身。日本工学院専門学校を卒業し、映画の世界に入った。現在は会津の下郷町を活動の拠点にしている。檜枝岐歌舞伎を題材にした『やるべぇや』(2011年)、会津弁の語り部である山田登志美を描いた『生きてこそ』(2013年)、金山町でマタギとして生きる猪俣昭夫を追った『春よこい』(2015年)は、いずれも会津を舞台にしたドキュメンタリー映画だ。

前出の男性が『知事抹殺の真実』を見るために福島市に来たのは、会津3部作を通じて安孫子ファンになったからである。ただ、今回の映画は会津が舞台ではない。自然の中で力強く生きる人々も登場しない。従来の安孫子作品とは違って、極めて政治色の強い映画だ。主役は元福島県知事の佐藤栄佐久。福島県政を揺るがせた汚職事件の容疑者・被告でもある。
前出の男性はこう語った。
「佐藤元知事が逮捕されたのは、何年でしたかね? あっ、2006年ですか。もう10年もたつんですね。当時は私も会津若松に住んでいたので、事件を報じる新聞やテレビをよく見ていました。その後、元知事は『知事抹殺』(平凡社)という本を出しました。登場人物が実名になっていたので、臨場感がありました。『知事経験者がよくここまで書いたな…』と驚きました。あの本を読んだのは、当然のことながら、事件に興味があったからです。加えて、今回の映画は安孫子監督の作品なので、『見逃せない』と思い、福島まで来たわけです」
時間は午前8時40分になった。後ろを振り返ると、列がいつの間にか長くなっていた。70人ぐらいは居るだろうか。『知事抹殺の真実』が上映されるのは、シアター1である。客席数は153席なので、列があまり長くなると、途中で入れない人が出てくるかもしれない。

午前8時50分になると、入口のドアが開いた。その瞬間、「ようやく暖かい館内に入れる!」と心の中で拍手喝采した。私は前売券を購入していたので、それを係員に差し出した。半券を受け取り、階段を上ってシアター1ヘ。私の前に並んでいた男性は、前売券を購入していなかったので、当日券を購入した。前売券は1000円、当日券は1700円。700円の価格差があるので、大半の人は前売券かな?と思ったが、意外とそうでもなかった。入口付近は当日券を購入する人で混雑し、流れが滞った。

男性が言ったように、28日は映画の上映後、安孫子と佐藤が来場者に挨拶することになっていた。映画の上映期間は2月3日までだが、2人の姿を見たい人が多かったので、行列ができたのだ(その後、上映期間は2月24日まで延長されることが決定した)。私も2人が目当てだった。料金が同じなら、監督と主役の挨拶がある日に映画を見た方がよい。
2人の写真を撮影することを考えると、前の方に腰を下ろしたい。ただ、最前列では2人を見上げるような形になるので、前から2列目の席を選んだ。遅れてやってきた前出の男性は、私の隣に腰を下ろした。
「間違って(1階の)シアター2の方に行っちゃいましたよ。扉が開いているんだもん。でも、中は暗いし、人があまり入って来ないので、1分後ぐらいに『あれ?何かおかしいぞ!』と気づきました」
彼はそう言って、苦笑いした。上映は午前9時30分から。それまで彼と世間話をして時間を潰した。

【写真】
・映画の主役になった佐藤栄佐久元知事
・『知事抹殺の真実』のチラシ(表裏)
・フォーラム福島1・2の入口前の歩道にできた行列