△福島県民球団の赤いトラック

プロ野球「ルートインBCリーグ」のオープン戦が3月18日、ほばら大泉球場(伊達市)で行われた。カードは「福島ホープス対武蔵ヒートベーアーズ」。スタンドには熱心なファンが詰めかけたが、ホーム側のホープス応援団はいまひとつ盛り上がりに欠けた。一方、ビジター側のベアーズ応援団は3人だけだったが、旗を振ったり、太鼓を叩いたりして、大盛り上がりだった。試合はベアーズが7-4でホープスを破った。

△盛り上がるベアーズ応援団

ホープス応援団が盛り上がりに欠けたのは、チームを運営する福島県民球団の経営難が表面化したからだ。球団の株主でもある福島民報(2月27日付)によれば、2017年度は5679万5773円の経常損失を出したという。
あるファンはこの記事を目にして、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「額が多すぎるので、ケタを1つ見間違えたのではないかと思いました。500万円台なのではないかと。それで数字を何度も確認してみたのですが、やはり5000万円台でした。経営が厳しいということは薄々感じていましたが、まさかこれほどとは…」
球団の年間予算は1億数千万円である。その規模で5000万円以上の赤字を出せば、経営が継続できなくなる。大きなスポンサーがつくか、親会社が交代しなければ、倒産は避けられない。

△球団代表も兼ねる岩村明憲監督

過去の決算はどうだったのか。リーグ参戦1年目の2015年度は約200万円の純利益を確保した。2年目の2016年度は979万9525円の経常損失を計上。3年目の2017年度も赤字決算になるのは必至と見られていたが、額が想定を大きく超えていた。▲980万円→▲5680万円だから、一気に5倍以上に膨らんだことになる。
球団経営が悪化していることは、一部ファンの間で以前から話題になっていた。2017年の公式戦が終了すると、「球団社長が交代するらしい」という噂が流れ始めた。
それを裏付ける出来事が今年1月末に起きた。チアリーダー「ホープスガールズ」の解散が公式ブログで発表されたのだ。彼女たちは過去3シーズンにわたって試合の盛り上げ役を務めてきた。ホープスの試合では欠かせない存在だったので、その知らせはファンに衝撃を与えた、

△解散したホープスガールズ

ホープスガールズは、チアリーダーとPRの2チームで構成されていた。1試合の報酬は、それぞれ8000円と5000円だった。ある試合でチアリーダーチームが4人、PRチームが3人集まったとすると、その人件費は8000円×4人+5000円×3人で計4万7000円になる。これとは別に交通費も支給されていた。
試合ごとに集まる人数が異なるので、1シーズンの総人件費は分からない。100万円は大きく超えていただろうが、彼女たちの働きぶりからすると、割安だったとも言える。試合前はイベントに華を添え、試合中はダンスを披露し、試合後はファンに笑顔で「また来てください」と呼び掛けていた。彼女たちが居なくなると、試合会場は火が消えたようになる。

△経費削減を進める扇谷富幸社長

福島民報に2017年度の決算が載ったのは、その約1カ月後。これにより、ファンはホープスガールズ解散の意味を正確に理解した。球団はもう、彼女たちに報酬を支払う体力がなくなっていたのだ。
球団社長の扇谷富幸は、富山県出身の38歳。中古車販売をメーンとする扇(郡山市)を経営している。年間売上は約20億円。球団経営に乗り出したのは、震災と原発事故に遭った福島県を元気にするためである。選手兼任監督として岩村明憲(元ヤクルトなど)を招聘し、華々しいスタートを切ったが、早くもリストラに着手せざるを得ない状況に追い込まれた。

△広告であふれるユニフォーム

ホープスのユニフォームは、スポンサー企業の広告がびっしりと入っている。上半身は空いているスペースがないので、下半身にも広告が入っている。知らない人が見たら、「モータースポーツの選手が着用するレーシングスーツかな?」と思うのではないか。スポンサーについては他球団より恵まれているような感じもするが、支出の方も多かったのだろう。
BCリーグは人件費を抑えるため、サラリーキャップ制を導入している。1球団のシーズン総年俸は3105万円を超えてはならない(監督・コーチの年俸は別枠)。選手数は27人が上限で、1人あたり月10~40万円の範囲で給与が支払われる。支払い期間は公式戦が行われる半年間のみ。これらの条件は全球団共通なので、福島県民球団の経営が悪化したとすれば、それ以外の項目に経費を使いすぎたことになる。

△試合数が増えるほばら大泉球場

球団も身の丈に合った経営を目指すことにしたのだろう。ホープスガールズの解散以外にも、今シーズンはさまざまな経費削減策を打ち出した。球団事務所は3月1日に郡山市から須賀川市(旧岩瀬村)に移転。練習の拠点になっている「いわせ多目的グラウンド」にプレハブの建物を設けた。シーズン開幕前の春季キャンプはこれまで茨城県南部(鹿嶋市周辺)で行っていたが、今シーズンはいわせ多目的グランドになった。
ホームゲームの会場・試合時間も大幅に変わる。県北地方の拠点会場はこれまで県営あづま球場(福島市)だったが、今シーズンはほばら大泉球場になる。試合数は、あづま球場が2試合、ほばら大泉球場が6試合。ナイトゲームはなくなり、全36試合がデーゲームとなる。照明施設のあるヨーク開成山スタジアムやあづま球場の試合も例外ではない。照明施設の使用料をカットするためで、夜空に白球が打ち上がるという光景は見られなくなる。

△遠征用の大型バスはどうなる?

福島県民球団は果たして、今後も経営を継続できるのか。シーズン途中でチーム解散という最悪の事態に陥ることはないのか。ほばら大泉球場に居た球団関係者に話を聞くと、「見通しはついた」という。
「親会社(扇)と球団の経営は全く別です。球団の経営については、大きな企業が手伝ってくれることになりました。『手伝ってくれる』の具体的な内容ですか? スポンサーになるのか、大株主になって経営に積極的に関与するのか…については、現時点では申し上げられません。いずれ球団から正式な発表があるので、それまでお待ちいただきたいと思います」
ホープスに明るい話題は見当たらないが、BCリーグ全体を見渡すと、好材料がある。読売ジャイアンツなどで活躍した村田修一が栃木ゴールデンブレーブスに入団したことだ。妻の絵美は小山市出身。長男の閏哉が未熟児だったことから、毎年オフに自治医科大学付属病院(下野市)を訪問するなどの活動を続けてきた。 独立リーグはBCに10球団、四国アイランドplusに4球団あるが、栃木県との縁が深いため、ブレーブスを選んだ。

△経営難の中でプレーする選手たち

村田は1980年生まれの「松坂世代」だ。37歳なので選手としてはピークを過ぎているが、NPB球団でも十分にやれる実力がある。何より知名度が高い。村田という目玉選手が入団したことで、今シーズンのブレーブス戦は観客数が大幅に増えるはずだ。
今シーズン、県内で行われるブレーブス戦は計8試合。4月15日(ヨーク開成山)、5月3日(西会津)、5月16日(ほばら大泉)、6月2日(県営あづま)、6月24日(楢葉)、7月15日(みちのく鹿島)、7月28日(ヨーク開成山)、9月8日(同)…。ただ、シーズン途中で村田がNPB球団に移籍する可能性もあるので、全ての試合に出場するかどうかは分からない。

【文と写真】角田保弘


△歌のモデルになった渋谷駅周辺

ばんばひろふみの依頼を受けたユーミン(荒井由実)は『「いちご白書」をもう一度』を書き上げた。カセットテープに歌を吹き込み、それを見本として送った。ばんばはそのタイトルを見て、「こんな映画を誰が知ってるんだ?」と不安になった。次に歌を聴いて、驚いた。学生時代の思い出を振り返る若い男性の心情が、学生運動と関連づけて描写されていたからだ。哀愁を帯びたメロディも秀逸だった。ばんばは、ユーミンのけた外れの才能を再認識し、「この人に楽曲の制作を依頼したのは正解だった」と思った。

編曲は瀬尾一三が担当した。吉田拓郎やかぐや姫などの楽曲を手掛け、近年は中島みゆきの音楽上のパートナーとも言える存在になっている。瀬尾はエレキギターの音色を際立たさせるメロディを考案し、ギタリストの芳野藤丸に演奏を任せた。
芳野は、ドラマーのつのだ☆ひろにスカウトされて、プロのミュージシャンになった。西城秀樹『ヤングマン』、郷ひろみ『よろしく哀愁』、井上陽水『夢の中へ』、太田裕美『木綿のハンカチーフ』、久保田早紀『異邦人』、石川さゆり『天城越え』、梅沢富美男『夢芝居』など数千曲のレコーディングに参加した実績を持つ。1979年にロックバンド「SHOGUN」を結成し、『男達のメロディ』をヒットさせた。『「いちご白書」をもう一度』のレコーディングでは、渡された譜面に基づいてギターを演奏した。アドリブはなかったが、ロックのテイストを付け加えた。

リリースは1975年8月だったが、ばんばはその前に自分がパーソナリティを務める『セイ!ヤング』で流してみた。リスナーの反応は良く、すぐさま段ボール箱にあふれるほどのリクエストはがきが届いた。その人気が有線放送に波及し、10月になってレコードの売上が伸びた。
学生運動の象徴となった東京大学の安田講堂占拠事件が起きたのは1969年1月のことだった。レコードが発売されたのはその6年後。当時は学生運動の余韻が残っており、「あの騒ぎはなんだったのか?」という空虚な雰囲気が社会全体に漂っていた。「世の中を変える」という意気込みで学生運動に参加したものの、社会の壁は厚く、挫折感を味わった者もいた。そのタイミングで学生運動をテーマにした楽曲が発表されたので、共感する人々が続出し、オリコンランキング首位の大ヒットにつながったのだ。

ところで、この楽曲には「就職が決まって 髪を切った時 もう若くないさと 君に言い訳したね」という歌詞がある。つまり、長髪のまま就職活動を行い、面接に臨んだことになる。当時はそれでも内定をもらえるほど学生が優位な状況だったのだろうか。
ばんばは、この歌詞を初めて目にしたときの印象を次のように述べている。
「一瞬あれっと思った。超優秀だから長髪でも内定したということにしておきましょう」(朝日新聞3月17日付)

この歌詞に引っ掛かる人は多いようで、ネットではさまざまな説が提示されている。代表的な説は、次の2つだ。
「当時は社会全体がおおらかだったので、『就職が決まって~』という歌詞は荒唐無稽とは言えない。会社側の採用基準が甘かったので、長髪の学生でも内定をもらうことができた。『髪を七三に分け、リクルートスーツを着て就職活動をする』という現代の基準で考えるから、おかしいと感じるんだ」
「『就職が決まって~』という歌詞は『就職することを決めて~』という意味だ。大学院への進学やフリーの職業(作家・ミュージシャンなど)に就くという選択肢がある中で、『会社に就職する道を選んだ』と言いたいわけだ。『就活』という言葉が定着した今なら『就活が迫って髪を切ってきた時』という歌詞になる」
ばんばの解釈は前者に近い。ただ、「…ということにしておきましょう」という言葉からすると、妥協の産物であり、心の底から納得しているわけではないようだ。

ユーミン自身は何を意図して、こういう歌詞を書いたのか。そのものズバリの資料を見つけることはできなかったが、ヒントのようなものは存在する。ばんばとユーミンの仲介役を務めた音楽プロデューサー前田仁の証言だ。
朝日新聞夕刊(2009年6月25日付)に「『いちご白書』は僕だった」という記事が載っている。「ニッポン人・脈・記」という連載の1つ。この「僕」というのは、前田のことである。

3月21日付の本ブログで述べたように、バンバンの楽曲を制作するに当たって、ユーミンは前田に学生時代の思い出を聞いた。記事によれば、前田は就職活動を始める前に髪を切ったと話した。しかし、できあがった歌詞は「就職が決まって髪を切ってきた時」となっていた。前田の話と違う歌詞になったので、ユーミンは「仁さん、私、うそを書いちゃった」と言った。これに対して、前田は「いいよ、いいよ」と返答したという。

この楽曲は、前田の評伝(ノンフィクション)ではないので、歌詞が事実と違っていても問題はない。一方で、前田が話した通りの歌詞にしても、問題が発生するとは思えない。それなのに、なぜ、ユーミンは「就職が決まった後に髪を切った」という設定にしたのか。「就職することを決めて~」では、歌詞がメロディに乗り切れないので、あえて短縮化したのだろうか。

ここから先は私の解釈であり、それを裏付けるような資料があるわけではない。「根拠は?」と問われたら、沈黙するしかない。それを前提にして読んでもらいたい。
長髪は若者文化の象徴であり、大人からすると、反抗的に見えるファッションである。前田もずっと長髪にしていたが、就職活動を前にして髪を切り、反抗的なファッションを封印した。学生生活の途中で社会に出る準備を始めたのだ。

学生運動に励んだ学生であっても、いずれは卒業し、就職しなければならない。同時に組織の一員になることを決意しなければならない。ユーミンもそうした現実を分かっているが、自分の彼には卒業(就職)直前まで髪を切らないでいてほしいという願望があったので、「就職が決まって~」としたのではないか。ギリギリまで粘ったうえで髪を切ったという設定にした方が、「もう若くないさ」という言い訳がより生きる。

ユーミンはほぼ同じ時期に『卒業写真』という楽曲を制作した。その中に「人ごみに流されて 変わってゆく私を あなたはときどき 遠くでしかって」「あの頃の生き方を あなたは忘れないで あなたは私の 青春そのもの」という歌詞がある。人ごみに流されて変わってゆく私は、就職活動を前にして髪を切る物わかりの良い学生を指すのではないか。また、あの頃の生き方というのは、社会を変えようとして学生運動に励んでいた青春時代を指すのではないか。
『「いちご白書」をもう一度』は男性目線、『卒業写真』は女性目線の歌詞だが、言いたいことはほぼ同じ。この2つの楽曲は裏表一体の関係にあるというのが、私の見方だ。

【文と写真】角田保弘


△名作を上映するフォーラム福島

朝日新聞の土曜版『Be』に「もういちど流行歌」というコーナーがある。その時代の空気を反映した流行歌にスポットライトを当てて、歌い手や制作者に当時の心境を語ってもらおうという内容だ。2018年3月17日付の紙面ではバンバン『「いちご白書」をもう一度』が取り上げられた。
この歌は1975年8月、フォークグループ「バンバン」の5枚目のシングルとしてリリースされた。作詞・作曲は荒井由実(現・松任谷由実)。リリース直後からジワジワと売上を伸ばし、12週目にオリコンランキングの1位を獲得した。累計の売上は75.1万枚で、40年以上たった現在もカラオケなどでよく歌われている。

バンバンは、1971年にばんばひろふみ(馬場弘文)、今井ひろし、高山弘(現・高山厳)の3人で結成された。グループ名は、ばんばの愛称「ばんばん」から取った。1972年5月に『何もしないで』、1973年3月に『こころの花』、同年10月に『永すぎた春』、1974年9月に『冬木立』をリリースしたが、いずれも売上は低調だった。
バンバンの結成から4年―。ばんばは、文化放送の深夜番組『セイ!ヤング』のパーソナリティを谷村新司(アリス)と共に務めるようになっていた。この番組はリスナーの間で人気が高まり、その内容が「KKベストセラーズ」で書籍化されたほどだ。しかし、本業のミュージシャンとしてはパッとせず、バンバンのメンバーも加入・脱退が続いた。

ばんばは事態の打開を図るため、新進気鋭のシンガーソングライターとして頭角を現していた荒井由実(ユーミン)に楽曲の制作を依頼してみようと考えた。詞も曲もクオリティが高く、けた外れの才能があると感じていたからだ。フォークソングのグループが作詞・作曲とも外注するのは異例だが、ばんばはそうしなければならないほど焦っていた。ユーミンの楽曲で売れなかったら、バンバンは解散すると覚悟を決めた。
ばんばは1975年1月、音楽プロデューサーの前田仁を通じて、ユーミンに楽曲の制作を依頼した。ユーミン本人にも会い、「1曲お願いします」と頭を下げた。条件はつけなかった。

ユーミンは、4歳上のばんばに対して「学生っぽい人だな…」という印象を抱いた。そのとき、反射的に「この人は学生運動の楽曲が合うのではないか」と思った。
当時のユーミンは、学生運動に興味があり、いずれは楽曲のテーマにしてみたいと考えていた。ばんばに会い、その気持ちがさらに強まった。ただ、ユーミンの学生時代は、学生運動がすでに下火になっていた。自分自身は学生運動の経験がないので、7歳上の前田に学生時代の話を聞かせてもらった。

前田は鹿児島県出身。早稲田大学に進学し、1年生のときに学費値上げ反対運動に参加した。1966年2月に機動隊が学内に入り、前田を含む約200人が一斉に逮捕された。その経歴が響き、希望していた商社に入れず、1969年にCBS・ソニーレコードに就職した。吉田拓郎ら多くのミュージシャンをバックアップし、ニューミュージックというジャンルを確立した人物と言われる。
ユーミンは、前田の話と自分自身の体験を結びつけた。過去に青山学院大学の学生と交際していた時期があり、彼と青学から渋谷駅へ2人で歩いたときの情景をイメージした。その中に2人で鑑賞したアメリカ映画『いちご白書』をキーワードとして盛り込んだ。

この映画は、米コロンビア大学の学生だった作家ジェームス・クネンのノンフィクションがベースになっている。原題は『The Strawberry Statement』。同大学の学生闘争の経過を著したもので、1968年の抗議行動と学部長事務所の占拠がハイライトになっている。学部長のハーバート・ディーンは「大学の運営についての学生の意見は、彼らがいちごの好みを語るのと同じ」であり、大した意味はないと指摘。この発言がタイトルに取り入れられた。

クネンのノンフィクションは、1970年1月に角川書店から訳書が発売された。訳者の青木日出夫は、本文で「ストロベリー宣言」と訳したが、本のタイトルは『いちご白書』になった。角川春樹の発案だった。
映画が公開されたのは1970年6月のことである。前述したようにクネンのノンフィクションをベースにして、1960年代の学生闘争がフィクションとして描かれた。監督はスチュアート・ハグマン。1970年に開催された第23回カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、後にアメリカンニューシネマを代表する作品となった。ただ、日本では興行成績が振るわず、すぐに打ち切りになった。

【文と写真】角田保弘