△「男・村田」の野球人生は続く

プロ野球にFA(フリーエージェント)制度が導入されたのは1993年オフのことである。一定の要件をクリアした選手は、希望する球団に移籍できるというものだ。この制度を活用して、毎年のように有力選手をかき集める球団がある。「球界の盟主」を自任する巨人だ。
過去に獲得した選手は次の通り。
1993年は落合博満(前中日)、1994年は広沢克己(前ヤクルト)と川口和久(前広島)、1995年は河野博文(前日本ハム)、1996年は清原和博(前西武)、1999年は工藤公康(前ダイエー)と江藤智(前広島)、2001年は前田幸長(前中日)、2005年は野口茂樹(前中日)と豊田清(前西武)、2006年は小笠原道大(前日本ハム)と門倉健(前横浜)、2009年は藤井秀悟(前日本ハム)、2011年は村田修一(前横浜)と杉内俊哉(前ソフトバンク)…(これ以後は省略)。

巨人にとって、FA選手は外国人の助っ人と同じである。獲得に動くときはチヤホヤするが、力が衰えて来ると、容赦なく切り捨てる。だから、前述した選手の多くは不本意な形で巨人を去った。より正確に言えば、追い出された。ハッピーエンドにならないのが、巨人に入団したFA選手の宿命だ。
巨人で6年間プレーした村田修一もその1人。移籍初年度の2012年5月1日に4番打者として打席に立った。2013年11月に原辰徳監督に選手会長に指名され、移籍組としては初めてその座に就いた。原の本命は長野久義だったが、固辞したため、日本大の先輩である村田に役が回ってきた。
しかし、選手会長を務めても、FA選手はやはり助っ人に過ぎなかったようだ。村田も最後は「チームの若返りを図るので、来季は多くの打席を与えることができない」「通算2000本安打まで135本に迫っているので、他球団に移籍した方がよい」として、巨人を追い出された。


△グランドで素振りを繰り返す

通算2000本安打を達成した選手は、名プレーヤーが集う「昭和名球会」に入会できる。プロ野球選手として箔がつく。引退後は野球解説者として声がかかったり、講演の仕事が入る。だから、通算2000本安打が視界に入った選手は、何とか達成したいと思うようになる。
「ヤワラちゃんの夫」として知られる谷佳知は尽誠学園高、大阪商大、三菱自動車岡崎を経て、1997年にドラフト2位でオリックスに入団した。チームの中心選手として活躍したが、2006年11月に鴨志田貴司、長田昌浩との交換トレードで巨人に移籍。新天地でもレギュラーポジションを獲得したが、次第に代打での出場が多くなった。2013年11月に戦力外通告を受けて、退団が決定。この時点で通算1921安打で、2000本安打まであと79本に迫っていた。

△凡打してベンチに引き返す

ここで救いの手を差し伸べたのが、古巣のオリックスだ。2000本安打達成を後押しするため、谷の獲得を表明。これにより、谷は8年ぶりにオリックスでプレーすることになった。しかし、すでに40歳になっていたため、2014年は2安打、2015年は5安打に終わった。
通算1928安打で引退。大学・社会人を経て通算2000本安打を達成したのは古田敦也(ヤクルト)、宮本慎也(同)、和田一浩(西武・中日)の3人だけ。谷は4人目になることを目指したが、達成できなかった。

労組日本プロ野球選手会第7代会長を務めた新井貴浩は、広島工高、駒澤大を経て、1999年にドラフト6位で広島に入団した。プロ3年目の2001年にレギュラーに定着。2007年11月にFA宣言し、兄貴分の金本知憲の後を追うように阪神に移籍した。
2010年4月18日に金本がスタメン落ちしたため、初めて阪神の4番に。これ以降も4番が指定席となり、同年は自己最高の177安打、112打点を記録した。2013年は127安打。しかし、2014年は代打での出場が多くなり、わずか43安打に終わった。

△栃木ゴールデンブレーブスのバス

阪神は、契約更改の席で新井に年俸7000万円を提示した。前年は2億円だったので、一気に65%減となる。これは野球協約で定められた減額制限(年俸1億円以上の場合は40%)を超える金額だった。この年俸を受け入れれば阪神に残留できるが、来季も代打に回されるのは必至。「野球選手としてもう一度勝負がしたい」と考えた新井は球団に自由契約を申し入れて、退団することを選んだ。

この時点で通算1854安打だった。2000本安打まであと146本。この状況で古巣の広島が獲得を表明し、新井は再入団を決めた。年俸は2000万円で、前年の10分の1になった。
広島で復活し、2015年は117安打を放った。2016年4月26日のヤクルト戦(神宮)で2000本安打を達成。同年は136安打、19本塁打、101打点を記録し、アメリカ帰りの黒田博樹と共に広島の25年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

村田と新井は境遇がよく似ている。大卒でプロ入りし、優勝から遠ざかっているチームの主砲となった。背番号は共に25。FAで人気球団に移籍し、4番の座に就いた。しかし、チームの若返りでレギュラーの座を奪われ、居場所がなくなって退団。違うのは、ここから先だ。新井は広島に出戻ることができたが、村田は獲得に動く球団がなかった。新井は広島市出身なので、戻れた面もある。

村田が巨人を退団したとき、「移籍先はすぐに見つかるだろう」という見方がもっぱらだった。しかし、現実は厳しく、村田はBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団せざるを得なくなった。年俸は2億2000万円から推定240万円へ。新井は広島に出戻りしたことで年俸が10分の1になったが、村田はほぼ100分の1になった。
なぜ、村田は受け入れ先がなかったのか。ネットの掲示板では「性格に問題がある」という説が有力になっている。清原和博や中村紀洋と同じタイプだというのだ。見た目は確かにそんな感じもするが、実際はどうなのか。

△巨人時代のユニホームにサイン

週刊現代は2018年2月17日・24日合併号に「実力はあるのにどこからも声がかからない…『わが社の村田修一くん』」という記事を掲載した。一般社会にも自分の実力を過信して独善的な態度をとり、居場所を失う社員がいるという内容だ。この記事に次のような記述がある。
《村田にそのイスが用意されない理由のひとつに、性格的な部分も邪魔しているという話もある。
「人柄は悪くないですが、決して面倒見のいいタイプとは言えません。勝ち越しタイムリーを打った後に、投手が打ち込まれ逆転を許すと、不貞腐れた表情を出すこともたびたびありました。これでは若手投手が萎縮してしまいます」(スポーツ紙記者)》
…とあるが、移籍先の巨人で選手会長を務めたことを考えると、そこまで性格に難があるとは思えない。一方で、控えに回ることが多くなった2017年4月22日、日本テレビ系の情報番組「ズームイン!!サタデー」に出演し、「暇すぎて!まじで暇すぎるんですよ!」と口走った(4月18日に熊本で行われたヤクルト戦の前に収録された映像)。本人は冗談のつもりだったかもしれないが、巨人以外の球団に「扱いづらい選手」と受けとめられた可能性もある。

生え抜きの選手は、村田のような扱いを受けることはない。200勝や2000本安打が現実的になると、戦力としては微妙であっても、球団は契約を継続する。監督もできるだけ試合に出して、記録達成を後押ししようとする。
西武の西口文也は2012年に5勝を挙げ、通算182勝となった。大卒投手が200勝すると、村山実以来の快挙となる。しかし、2013~2015の3年間は未勝利に終わり、2015年9月に引退を表明した。西武一筋21年。ピーク時は2億7000万円だった年俸も2500万円まで下がったが、球団は西口との契約を打ち切ろうとはしなかった。引退後の西口は、球団職員、2軍投手コーチ、1軍投手コーチというコースを歩んでいる(広島の黒田博樹が2016年7月に日米通算200勝を達成。大卒では村山以来46年ぶりの200勝投手となった)。

△ファンが差し出した色紙にサイン

ロッテの福浦和也は今季、プロ25年目に突入した。千葉県習志野市出身で、習志野高からドラフト7位でロッテに入団。そのまま在籍し続け、24年間で通算1962安打を放った。今季の開幕時点で2000本安打まであと38本。近年は代打での出場が主なので、今季のうちに達成できるかどうかは微妙だ。6月3日の時点であと23本。ロッテは6月14日の横浜DeNA戦(ZOZOマリンスタジアム)を『ALL for CHIBA習志野デー』と命名。当日は福浦の母校である習志野高の吹奏楽部が来場し、私設応援団と共に外野スタンドでロッテを応援する。

村田が横浜一筋の野球人生を歩んでいたら、通算2000本安打を目前にして自由契約になることはなかっただろう。ただ、巨人にFA移籍しなければ、優勝を経験することはできなかった。どの道を選択してもプラスとマイナス面があったので、第三者が「こうすれば良かった」と断言することはできない。
村田は栃木ゴールデンブレーブスを経由して、NPB球団に復帰するというシナリオを描いている。移籍期限は7月末なので、残された時間は約50日。4月13日の試合で右太ももを痛めた村田は、コンディションが万全とは言いがたい。打撃成績もNPB球団が着目するレベルではないが、懸命にプレーしていることはスタンドから見ていても分かる。その姿を通じて「扱いづらい選手」というイメージを払拭できれば、仮に選手としてNPBに復帰できなくても、指導者として声がかかるだろう。

【文と写真】角田保弘


△ファンの前でも険しい顔の村田

BCリーグの「福島ホープス対栃木ゴールデンブレーブス」の5回戦は6月2日、福島・県営あづま球場で行われた。昨季まで巨人でプレーし、今季は栃木の一員になった村田修一(37)は4番DHで先発出場。結果は4打数1安打1四球だった。4回は2死満塁のチャンスで打席に立ったが、福島の2番手・大河原雅斗の変則投法(下手投げ)にタイミングが合わず、センターフライに打ち取られた。
村田は試合後、野球用具を入れたバッグを担いで球場から出てきた。バッグを大型バスのトランクに入れて、一旦は車に乗り込んだ。しかし、バスの周辺にファンが集まってきたので、再び外に出てきた。ファンが差し出した色紙にサインをしたり、記念撮影に応じたが、笑顔は見せなかった。眉間には深いしわが刻まれていた。バスの発車時刻が迫ると、ファン3~4人とまとめて記念撮影。バスに乗り込む直前に少し表情を崩したが、笑顔と言えるほどではなかった。

村田は福岡県篠栗町出身。東福岡高時代は、投手兼3番打者として甲子園出場を果たした(1998年の春・夏大会)。春は横浜高の松坂大輔と投げ合い、0-3で敗れた。日本大に進学し、打者に転向。2002年11月の第38回ドラフト会議において自由獲得枠で横浜(現横浜DeNA)に入団した。
プロでは1年目から一軍に定着して25本塁打を記録。2007年に36本塁打、2008年に46本塁打を放って2年連続本塁打王を獲得した。2011年オフに横浜から国内FA権を行使して巨人へ移籍。3度のリーグ優勝、12年の日本一に貢献した。生え抜き選手ではないが、2013年秋に選手会長に就任した。

△真剣な表情で素振りを繰り返す

2016年は三塁レギュラーとしてチーム唯一の全143試合出場を果たした。ベストナインとゴールデン・グラブ賞を受賞。打撃成績は25本塁打、81打点で、チーム2冠となった。
しかし、2017年はケーシー・マギーの加入によって出場機会が減少。後半戦は三塁に定着したが、規定打席に届かず、118試合で打率2割6分2厘、58打点、14本塁打に終わった。

巨人はシーズン終了後の10月13日、「村田と来季(2018年)の契約を結ばない」と発表した。GMの鹿取義隆は「彼はまだ十分やれる。(残り135本に迫った)2000安打も打てる。ただ、巨人はチームの若返りを進めるので、多く打席数を与えるのは難しい。村田君の選択肢を広げることが、せめてもの誠意と考えた。苦渋の選択だった」とコメント。鹿取の通告に対して、村田は「はっきり言ってくださってありがとうございます」と頭を下げたという。

△県営あづま球場は巨人時代も経験

村田は貴重な右の大砲である。巨人を自由契約になっても、獲得を表明する球団はあると見られていた。スポーツ報知は「楽天が村田の獲得を検討」と報道。オーナーの根岸孝成、球団社長の衣笠剛が共に日本大出身というヤクルトも獲得に動くのではないかと言われた。
しかし、話は一向に具体化せず、村田は宙ぶらりんになった。11月24日に巨人の納会ゴルフ(神奈川県大磯町)と納会(静岡県熱海市)に参加。報道陣に対して「難しい立ち位置。現役続行を探りながら待っている」と語った。

年が明けても、獲得を表明する球団はなかった。所属先が決まらない中で、1月7日に神奈川県厚木市のグラウンドでトレーニングを開始。現役引退については「今すぐに辞めるというのはない。まだできるし、体も動く。ケガもしていない」と完全否定。オファーの期限は「支配下登録期間の7月末まで」とし、独立リーグを経由して、NPB球団に復帰する考えも明らかにした。
NPB球団は2月1日に春季キャンプを一斉に開始。村田は「声がかかれば、いつでも行けるように」とトレーニングを継続した。ボールを使った練習は1人ではできないので、高校時代や大学時代の仲間に協力してもらった。

△ミズノ製のバットを愛用する村田

3月に入っても、獲得を表明する球団は現れなかった。その状況で、村田は独立リーグ加入という現実的な選択をした。所属先はBCリーグの栃木。本拠地の小山市は妻・絵美の出身地なので、馴染みがあった。
村田は3月9日、小山市内のホテルで会見し、「野球をさせていただく場所を提供していただき感謝しています。若い選手が多いので、いいお手本になれるように、また野球に取り組みたいと思います」「地域貢献活動含めてやっていきたい」と語った。小山市では単身生活を送り、自炊することも明かした。
村田の2017年の年俸は推定2億2000万円。BCリーグの月給は40万円が上限で、しかも支払われるのはシーズン中の半年間のみ。単純計算では年俸が240万円となる。つまり、村田の年収はほぼ100分の1になるわけだが、野球を継続できることになったので、その表情に悲壮感はなかった。

BCリーグは4月7日に開幕した。栃木は群馬ダイヤモンドペガサスと前橋・上毛新聞敷島球場で対戦し、7―7で引き分けた。村田は4番三塁で先発出場。一回の第1打席で空振り三振し、その後は二飛、遊ゴロ併殺、死球、四球だった。試合前は群馬の主砲フランシスコ・カラバイヨ(元オリックス)と村田のホームラン競争が行われた。スタンドには独立リーグとしては「大入り」の範疇に入る2428人のファンが詰めかけた。

△子どもからバットを受けとる村田

翌8日に小山運動公園野球場で群馬戦が行われた。栃木のホーム開幕戦だ。村田人気でスタンドには4162人のファンが詰めかけた。村田は4番三塁で先発出場したが、四球、遊ゴロ併殺、投ゴロ、右飛で3打数無安打に終わった。守備では2回にゴロをはじき初失策。5回にも先頭打者の鋭い当たりを捕れず、2失策となった。それぞれのエラーが失点につながり、栃木は1-7で群馬に敗れた。

村田は4月13日の武蔵ヒートベアーズ戦(小山)で5回に左越え適時二塁打を放った。その直後に右足の不調を訴えてベンチに退いた。15日の福島戦(開成山)、17日の武蔵戦(小山)、18日の新潟アルビレックスBC戦(悠久山)、20日の武蔵戦(上尾)、 21日の武蔵戦(小山)を欠場。28日の石川ミリオンスターズ戦(佐野)は4番DHで先発出場し、約2週間ぶりに復帰した。その後の試合は代打での出場が続き、コンディションの回復が遅れていることを伺わせた。ビジターの試合は、遠征そのものに参加しないこともあった。

△バスに乗り込む直前に表情を崩す

5月11日に小山で巨人三軍との3連戦がスタートした。栃木はこのシリーズを「男・村田祭り」と名付け、盛り上げを図った。しかし、主役の村田は先発出場できず、相変わらず代打での出場が続いた。
ただ、12日の試合は主役らしい活躍を見せた。1点を追う九回2死二塁の場面で代打で出場し、カウント2―2からの変化球を左中間スタンドに運んだのだ。BCリーグでの第1号は、試合を決める逆転2ランとなった(会場は小山だが、この試合は巨人のホームゲームとして行われた。巨人の9回裏の攻撃があったので、サヨナラ本塁打ではなかった)。

5月20日の福島戦(栃木)は4番DHで久々に先発出場。6月1日の武蔵戦(小山)は4番三塁で先発出場した。守備に就いたのは、4月13日の武蔵戦以来だ。
村田はこの試合で復調をアピールした。初回に5月12日の巨人3軍戦以来となる2号2ランを右中間スタンドへ叩き込んだ。3回に中越え二塁打、5回に左前打、7回に右中間に二塁打。サイクルヒットこそ逃したが、4打数4安打の猛打賞を記録した。

【文と写真】角田保弘

△スポーツランドSUGOの入場口

国内最高峰の自動車レース「スーパーフォーミュラ(SF)」の第3戦は5月26、27の両日、宮城県村田町のスポーツランドSUGOで行われた。26日は予選、27日は決勝で、両日とも天候に恵まれた。スタンドには大勢のファンが詰めかけ、コースを周回するマシンを見守った。
国内のトップフォーミュラは「F2」「F3000」「フォーミュラ・ニッポン」と名称を変えてきた。現在のSFになったのは2013年から。「ニッポン」の国名が入っていると、国内限定のレースというイメージが強まる。将来はアジア各国を転戦し、F1(欧州)、インディカー(北米)と並ぶフォーミュラレースにしたいという思惑があったので、国名を外したのだ。

△SUGO周辺の道路は大渋滞

今年はSFになって6年目となる。11チームの計19台が参戦しており、8チームが2台態勢をとっている。車体はダラーラ製(イタリア)、タイヤは横浜ゴム製で統一されている。エンジンはトヨタとホンダの2社が供給している。共に2㍑直列4気筒DOHCターボで、スーパーGT500クラスで使われているものと同じ。推定650馬力を発揮する。6チームの計11台がトヨタ製エンジン、5チームの計8台がホンダ製エンジンを搭載している。
日産はSFにエンジンを供給していない。このため、スーパーGTでは日産製マシンを走らせているチームインパル(星野一義代表)とコンドーレーシング(近藤真彦代表)は、SFでトヨタ製エンジンを使っている。ナカジマレーシング(中嶋悟代表)は、当然のようにホンダ製エンジンを使っている。

△横浜ゴムのレーシングタイヤ

シリーズは全7戦。今年は第1戦が鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)、第2戦がオートポリス(大分県日田市)、第3戦がSUGO(前出)、第4戦が富士スピードウェイ(静岡県小山町)、第5戦がツインリンクもてぎ(栃木県茂木町)、第6戦が岡山国際サーキット(岡山県美作市)、第7戦が鈴鹿サーキットという日程になった。SUGOラウンドは従来、9月に第6戦として行われていた。今年は5月に前倒しとなり、第3戦に組み込まれた。
5月は週末ごとにビッグレースが行われた。第1週が富士でスーパーGT第2戦、第2週がオートポリスでSF第2戦、第3週が鈴鹿でスーパーGT第3戦、第4週がSUGOでSF第3戦。SFとスーパーGTは出場チームと出場ドライバーが重複しているので、「過密日程だ」という声が続出。これを踏まえ、来年は日程の調整が図られる見通しだ。

△西コースを走るNSXとシビック

SF第3戦の開催に合わせて、SUGOでは「エンジョイホンダ2018」が開催された。クルマの機能や運転の楽しさを知ってもらおうというイベントだ。西コースではホンダ車の試乗会があり、ファンは各車のハンドルを握り、乗り心地を確認した。ただ、NSXだけはスタッフが運転し、ファンは助手席に乗るという形をとった。パワーがある上、2000万円台の高級車なので、安全策をとったのだ。
パノラマ駐車場もエンジョイホンダの会場になった。NSX、シビックタイプR、レジェンド、S660などホンダ車がずらり。ホンダがエンジンを供給するトロロッソのF1マシンもあった。四輪車だけでなく、二輪車もあった。子どもたちはレーシングシミュレーター、レーシングカート、塗り絵などを楽しんだ。

△塗り絵を楽しむ子どもたち

27日はF3、N-ONE OWNER'S CUP、SFの各決勝が行われた。N-ONE OWNER'S CUPは、ホンダの同名の市販車で順位を争うワンメイクレースだ。37台が出走。この中にホンダカーズ福島のクルマがあった。ドライバーは社員の関麗子だ。
グランドスタンドの隅(ダンロップブリッジ寄り)に関の応援団がいた。「ホンダカーズ福島」「駆け抜けろ!」とプリントした旗をヒラヒラさせていたので、目立っていた。その一角に腰を降ろすと、若い女性に「一緒に応援してください」と声をかけられた。その後、彼女は「これ、食べてください」と言いながら、森永のアイスクリームを差し出した。ラッキー!


△関の車(上)と旗を掲げる応援団

その返礼として、本ブログに関のクルマの写真を載せることにした。ゼッケンは26番。白い車体に赤い炎のような模様が描かれていた。その下にチェッカーフラッグ柄のライン。「Honda Cars福島」の文字も入っていた。
関は場内アナウンスで「ホンダカーズ福島の販売店で働いている女性ドライバー」と紹介された。郡山市出身で、勤務先も同市内の店舗だ。ショールームアテンダントをしており、国家2級自動車整備士の資格を持っている。コースを8周して、関の順位は33位だった。

△SFのスタートシーン。19台が出走

メーンのSF決勝は、午後2時19分に始まった。ゴールは250㌔㍍先で、1周3.704㌔㍍のコースを68周することになる。19台のマシンがグリッドに並び、エンジンの回転数を上げた。シグナルが赤から青に変わり、マシンが一斉にスタート。予選4番手の国本雄資が抜群のスタートダッシュを見せ、トップで第1コーナーに向かった。しかし、アウトから第1コーナーに入った野尻智紀、小林可夢偉、平川亮の3台にかわされ、第2コーナーでは4番手に落ちた。
オープニングラップは野尻、小林、平川、国本の順だった。トップ4は予選順位の通り。予選6位の山本尚貴が5番手につけ、周回を重ねた。
14周目、小林はメーンストレートで野尻に並び、第1コーナーでアウトから追い抜いた。トップに立った小林は2位以下を引き離しにかかり、独走状態を築きかけた。
事態が変わったのはその直後。16周目に千代勝正とジェームス・ロシターが馬の背コーナーで接触し、2台はグラベル(コース脇にある非舗装地帯)にストップした。これを処理するため、セーフティカーがコースに入った。小林は減速せざるを得なくなり、これまで築いたリードが無になった。

△SUGO戦3連勝を狙う関口雄飛

このタイミングで、山本、塚越広大、中嶋一貴、野尻、平川がピットに入り、タイヤ交換を済ませた。トップの小林はコースにとどまり、セーフティカーの後ろについて周回を重ねた。この対応の違いが勝負の分かれ目となった。
各マシンはレースの途中、少なくとも1回はピットに入らなければならない。SFでは2スペック(ソフトとミディアム)のタイヤを使用する義務があるからだ。ソフトタイヤでスタートしたマシンはミディアムタイヤ、ミディアムタイヤでスタートしたマシンは、ソフトタイヤに交換しなければならない。そういうルールが採用されているので、山本らはセーフティカーが入ったところで、タイヤ交換を行ったのだ。

△タイヤ交換に手間取った小林陣営

セーフティカーがコースを外れたのは24周目。レースが再開されると、小林は再び2位以下を引き離しにかかった。これからピットに入ることを考慮すると、山本らに35秒以上の差をつけておきたい。しかし、その差は30秒前後にとどまり、小林が首位を維持し続けるのは難しい情勢になった。
小林がピットに入ったのは45周目。タイヤ交換に17秒かかり、首位争いから完全に脱落した。
F1経験者の小林がSFに参戦したのは2015年のことだった。今年は参戦4年目に当たるが、いまだに表彰台の真ん中に立ったことがない。今回は過去最大のチャンスだったが、セーフティカーが入ったことで目算が狂った。ピットインを後回しにして、コースにとどまることを選んだチームの戦略ミスという言い方もできる。

△山本の優勝を喜ぶチームの面々

全車がピットストップを済ませたのは61周目。これにより、山本がトップに立ち、そのまま2位以下に10秒差をつけて優勝した。2位は、5周目にピットインしたニック・キャシディ、3位は中嶋一貴が入った。小林は6位。2016年と2017年のSUGOラウンドで連勝し、「SUGOマイスター」と呼ばれる関口雄飛は13位に終わった。
山本は第1戦の鈴鹿でも優勝。第2戦のオートポリスは悪天候による視界不良で決勝が中止になったので、山本は実質2連勝となった。
山本はSF参戦8年目(フォーミュラ・ニッポン時代含む)。優勝は通算5回目だが、過去4回はいずれも鈴鹿だった。鈴鹿以外で優勝したのは今回が初めて。

△トークライブで笑顔を見せる山本

山本はレース後、ファンの前でトークライブを行った。
「これまで『鈴鹿以外では勝てないドライバー』と言われてきました。鈴鹿で勝つことも大変なんですが、一方で鈴鹿以外では勝てなかったことも事実です。それが多少のプレッシャーになっていました(笑)。今回の優勝により、そうしたプレッシャーから逃れることができます」
山本は宇都宮市出身の29歳。2013年にSFの初代シリーズ王者に輝いた。ホンダ陣営のエース的な存在で、スーパーGTではチーム国光に所属し、元F1ドライバーのジェンソン・バトンとコンビを組んでいる。2016年8月にテレビ東京アナウンサーの狩野恵里と結婚し、話題になった。

【文と写真】角田保弘