△かつては憧れの的だったアメ車

クルマ関連の動画をあれこれと見ていたら、「何だ、これは?」と思うものが出てきた。10月27日の夜、ハロウィンで賑わう東京・渋谷で撮影された動画だ。
シボレー・インパラ(アメ車)のボンネットの上で仮装した女が寝そべり、その姿を友人が写真撮影。運転席にいた男はそれがウザいと思ったようで、クルマをホッピングさせた。しかし、女は気にせず、靴を履いたままボンネットに立ち上がった。その直後、インパラの後方にいた別の男が走ってきて、女の両足を腕で払いのけた。女はボンネットの上から転げ落ち、背中から地面に叩きつけられた。頭は打たなかったようで、女はすぐに起き上がった。近くにいた外国人2人は、その男に「何やってんだよ!」と詰め寄った。動画はそこで終了となった。

別の動画を見ると、男たちは3台のクルマ(いずれもアメ車)に分乗して、渋谷にやって来たことが分かる。前述したトラブルで居づらくなったようで、すぐにクルマを動かし、その場を立ち去った。そのとき、周りにいた外国人の1人がクルマに向かって缶を投げつけた。それでも男たちがクルマを止めなかったのは、外国人が大勢いたからだろう。人数と体格から見て、ケンカになれば、男たちに勝ち目はない。
それにしても、ハロウィン開催中の渋谷は日本とは思えない光景だ。まるで無法地帯だ。人混みにアメ車で乗り付け、周りに見せびらかす男たち。他人のクルマのボンネットに無断で上がり、ポーズをとる女。その姿に激怒し、死角から足払いする男。幸い大した怪我はなかったが、女が頭を打っていたら、傷害事件になっていた。

インパラのうち、1960年代に生産されたモデルはローライダー(クルマの車高を低くしたり、派手な外観に改造する人々)に人気がある。この動画に登場するインパラも1960年代のものだ。空色のコンバーチブル(オープンカー)。古きよき時代のアメ車らしく、ボディが無駄に大きい。実物を見たら、ドライバーに「(燃費は)リッター何キロ?」と聞きたくなる。半世紀前のクルマなので、維持費もかかりそうだ。
日本で「外車」と言えば、1970年代半ばまでは主にアメ車のことだった。ハリウッド映画に登場する高級車のキャデラックやリンカーンは憧れの的だった。力道山(プロレス)や田岡一雄(山口組三代目)もキャデラックを愛用していた。ジャイアント馬場(プロレス)は、親友のブルーノ・サンマルチノ(同)にプレゼントされたキャデラックに乗っていた。

森永製菓は1968年にエールチョコレートのコマーシャルを制作し、テレビで放送した。作曲家の山本直純が「大きいことはいいことだ 森永エールチョコレート♪」と歌うという内容。作曲したのは、山本自身である。
当時の日本は高度経済成長の真っ只中だった。そのカンフル剤として、1964年に東京オリンピック、1970年に大阪万博が開催された。1968年に国民総生産(GNP)が西ドイツ(当時)を抜き、世界第2位の経済大国となった。国全体がイケイケドンドンの昇り調子にあり、長大重厚産業がその牽引役になった。フルサイズのアメ車がステイタスシンボルになったのも、「大きいことはいいことだ」という空気が社会に蔓延していたからだ。

1973年1月に大場政夫(ボクシングWBA世界フライ級チャンピオン)が交通事故で亡くなった。愛車のシボレー・コルベットを運転し、首都高速5号線を走行。スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れず、中央分離帯を突破して反対側の車線に飛び出した。コルベットは正面から来たトラックと衝突。ロングノーズショートデッキのクルマだったが、運転席まで大破した。大場はほぼ即死だった。
同じ時期に沢村忠(キックボクシング)もコルベットに乗っていた。しかし、大場の事故死にショックを受けて、すぐに手離したという。

ここで重要なのは、大場、沢村のスター選手2人が欧州車ではなく、コルベットに乗っていたことだ。フェラーリやランボルギーニではなく、アメ車のスポーツカーに乗っていたのだ。当時はそれだけアメ車のステイタスが高かったことになる。
1977年に公開された映画『幸福の黄色いハンカチ』にこんなシーンがある。帯広市に着いた武田鉄矢は、通行の妨げになる場所に止めてあったクルマを無人だと思い、「ひどい止め方をするな」とつぶやきながら、車体を蹴り上げる。すると、車内からたこ八郎が出てきて、「あれ、傷がついた。どうすんだ、オメー」と因縁をつける。武田が謝罪しても許してもらえないので、高倉健が加勢に入る。高倉は「兄さん、クルマを傷つけられて、そんなに悔しいか」と言いながら、たこ八郎の頭をクルマのボンネットに何度も叩きつける。このときのクルマは、リンカーン・コンチネンタルだった。

当時、ヤクザが乗り回すのはアメ車というイメージがあった。映画の中のたこ八郎がリンカーンに乗っていたのも、それが原因だ。ヤクザ社会の頂点に立つ田岡は前述したようにキャデラックに乗っていた。ベンツはお呼びではなかったのだ。(つづく)

【文と写真】角田保弘