安倍晋三首相が内閣改造に踏み切る構えを見せている。森友・加計学園など自らが関与した問題で内閣支持率が低下傾向にあるからだ。毎日新聞が7月22、23日に行った調査では支持率が26%となり、1カ月前の前回調査から10ポイント下落した。このままではジリ貧が避けられないので、一部の閣僚を入れ替えて、新鮮味を出そうというのである。
自民党は年功序列の人事体系をとっており、議員歴が長くなると、閣僚に起用されるという暗黙のルールがある。当選回数で言えば、衆院議員が5回以上、参院議員が3回以上、衆院と参院の両方の議員を務めた場合は議員歴が13年以上になると「有資格者」となる。この条件をクリアしていながら閣僚経験のない議員は「入閣待望組」と呼ばれる。

ところが、現実を見ると、有資格者でもないのに閣僚になった議員が何人かいる。その筆頭が稲田朋美(衆院議員)だ。当選3回で内閣府特命担当大臣(規制改革担当)、同4回で防衛大臣に起用された。安倍が抜擢した形だが、結果は周知の通り。稲田は火だるまになり、安倍内閣の支持率が低下する一因になった。次の内閣改造で大臣を外され、一議員に戻るのは確実だ(27日に辞任を表明)。
稲田と対照的な議員もいる。逢沢一郎(衆院議員)は当選10回になっても閣僚経験がない。これは、自民党の七不思議の1つに挙げられるほど異例なことだ。次の内閣改造でも入閣の可能性は低い。親族企業「アイサワ工業」が、加計学園獣医学部の建設を受注していたからだ。逢沢本人も加計学園との関係が深く、国際交流局の顧問を30年にわたって務めている。それ自体に違法性はないが、加計学園問題が支持率低下の要因になっている中で、逢沢を閣僚に起用するのはリスクが高い。

逢沢以外では、衆院当選7回の入閣待望組の処遇が焦点になる。該当者は、今津寛、小此木八郎、田中和徳、平沢勝栄、宮腰光寛、岩屋毅、山本拓、竹本直一、原田義昭、三原朝彦の10人。木村太郎も該当者の1人だったが、25日未明に東京都内の病院で膵臓(すいぞう)がんのため死去した。52歳だった。
こういう訃報に接すると、閣僚はできるだけ早く、なれるときになっておいた方がいいと感じる。故人になったとき、閣僚を経験したかどうかで、政治家としての印象に差が出るからだ。

前述した10人の中で最も有名なのは平沢勝栄だ。岐阜県生まれだが、小学校から高校まで福島県で過ごした。県立福島高校から東京大学に進学。在学中に小学生だった安倍の家庭教師を務めたことで知られる。
平沢が安倍の家庭教師になったのは、全くの偶然である。学内の掲示板に家庭教師募集とあり、「2人の小学生を週3回教えて9000円、食事付き」という条件が書いてあった。駒場寮の食事が口に合わなかった平沢は「これはいい」と思い、応募したのだ。

その家に行くと、安倍晋太郎が出てきた。後に自民党幹事長や外務大臣などを務める大物だが、当時は若手だったので、平沢は名前も顔も知らなかった。妻の洋子が岸信介の長女であることも知らなかった。
安倍夫妻は選挙区の山口県に行く機会が多く、家を留守にしがちだった。2人の小学生(寛信・晋三兄弟)は電車で成蹊学園に通学しており、近所に友人はいなかった。このため、平沢は家庭教師として勉強を教える一方、遊び相手にもなった。キャッチボールをしたり、休日に映画に連れて行くこともあった。

政治家になった平沢は、少年時代の安倍を次のように振り返っている。
「安倍さんは『平沢さんに勉強を教えてもらわなければ、もっと成績が良くなっていた』とよく言っています。冗談じゃありませんよ。私が教えていなければ、今ごろ刑務所に入っていたかもしれません」
刑務所は冗談にしても、安倍が勉強熱心な子どもではなかったのは確かなようだ。小学校からから大学まで成蹊学園に通ったので、勉強する必要もなかった。受験の経験は一度もなし。地方の県立高校から現役で東大文Ⅰ(法学部)に合格した平沢からすれば、のんびりした性格に見えたはずだ。

平沢は東大卒業後、警察官僚になり、岡山県警察本部長、警察庁長官官房審議官、内閣官房長官秘書官などを歴任した。1995年に衆院議員になることを決意し、選挙区を探した。
出身地の岐阜県、育った福島県の各選挙区はすでに自民党の候補者がいて、空きがなかった。東京都内を見渡すと17区が空いており、ここに狙いを定めた。自民党都連幹部の深谷隆司、鯨岡兵輔、島村宜伸らに会い、了承を取りつけた。

東京17区は、葛飾区と江戸川区の一部で構成されている。平沢は縁もゆかりもないこの選挙区に単身で乗り込み、支持者を増やした。声がかかった会合はもちろん、声がかからなかった会合にも顔を出して、あいさつさせてもらった。
東京17区が空いていたのは、公明党(創価学会)が強い選挙区だったからだ。葛飾区は池田大作名誉会長が初代総ブロック長として新たな歴史を切り開いた伝統の地である。創価学会にとっては「天地」とも言える。ここを地盤にする政治家は、当然、創価学会の期待の星でなければならない。
その役割を与えられたのは、山口那津男だった。当時は新進党の一員。中選挙区時代の旧東京10区(足立区、葛飾区、江戸川区)で2回当選した実績がある強者だ。落下傘候補の平沢とは「基礎体力」が違う。しかし、平沢は1996年の衆院選で山口らを破り、初当選を飾った。

平沢は2000年の衆院選でも公明党の山口らを破り、再選された。一方の山口は、平沢に勝てないと悟ったようで、東京17区からの撤退を決めた。翌2001年の参院選に東京選挙区から立候補し、初当選した。
自公連立政権が定着したこともあり、2003年の衆院選以降、公明党は東京17区に候補者を擁立していない。平沢は公明党との戦いに完全勝利したわけだが、激闘の思い出は忘れられないようだ。平沢は今でも衆院選で公明党の推薦を受けていない。自民党の国会議員としては稀有な存在である。

平沢は、著書『日本よ国家たれ』(講談社)=2002年発刊=で、創価学会を強く批判している。
〈私自身も、2度の選挙の際に不当ないやがらせを受けた。対立候補が公明党だったため、誹謗・中傷のビラを選挙区内の全戸に何度となくまかれた。聖教新聞のコラムには「葛飾の友よ、悪魔との戦い、断固戦え、勝て、勝つことが正義だ」とまで書かれた。宗教団体なのに「悪魔」「正義」などと感情をからめた言葉を使って選挙で信者を煽動する。いかにエキセントリックな面を持つ特異な宗教であるかは疑問の余地がない〉
『日本よ国家たれ』は、創価学会批判に多くのページを割いている。「私が警視庁防犯部長だったとき創価学会絡みの事件を扱ったが、捜査の中身が相手方に筒抜けになったのでびっくりした」などと官僚時代の体験も書いている。創価学会は平沢を苦々しい政治家と受けとめているはずだ。
平沢が入閣できないのは、連立相手の公明党との関係が悪いからという説がある。しかも、現在の公明党代表は、過去に平沢と激闘を繰り広げた山口である。山口は平沢に2連敗し、参院議員へのくら替えを余儀なくされた。これでは、いくらお友だちにやさしい安倍であっても、平沢を閣僚に起用しづらい。

間が悪いのは、連立政権の中で公明党の存在感が増していることだ。きっかけは7月2日投票の東京都議選だった。公明党は自民党ではなく、都民ファーストの会と連携して選挙に臨んだ。これに対して、安倍は「公明党抜きの単独で勝利するいい機会だ」と述べ、楽観的な見方をしていた。
しかし、ふたを開けてみれば、自民党は現有57議席が23議席に激減した。過去最低の38議席(2009年)も下回る歴史的な惨敗だった。創価学会の支援がないと、自民党はここまで議席を減らすということが証明された格好だ。

自民党は今後、創価学会に気を遣わざるを得ない。冷たい態度をとれは、次の衆院選で創価学会の支援を受けられなくなる。あるいは手抜きをされる恐れがある。1選挙区あたり1万5000~2万票と言われる創価票がなくなれば、自民党候補は野党統一候補にバタバタと負ける。
平沢は、安倍にとって悩ましい存在だ。平沢を閣僚に起用して創価学会にヘソを曲げられたら、えらいことになる。かといって、当選7回で、71歳の平沢をいつまでも放置しておくわけにもいかない。放置し続ければ、「家庭教師だった平沢が煙たいのか」「創価学会に気を遣っているのか」という声が噴出する。
どういう選択をしたとしても、批判の矢は飛んでくる。八方丸く収まることはない。その状況で、安倍は平沢を閣僚に起用するのかしないのか。その答えが明らかになる8月3日が待ち遠しい。

【写真】
・選挙区の住民にあいさつする平沢衆院議員。場所は東京都葛飾区の立石商店街
・少年時代の思い出がある二本松市安達町で講演。小学校の恩師に花束をプレゼント