政府自民党は、福島県知事選の候補者選びで醜態を晒した。福島では今後、自民党支持者が激減するだろう。来春の統一地方選にも影響が出る。今回のドタバタ劇は、それほどひどかった。
スタート地点で、すでにおかしかった。3月16日に福島市で開かれた自民党県連大会。県連会長の岩城光英は、来賓の佐藤雄平の前で「佐藤知事の復興への取り組みには敬意を表するが、わが党は秋の知事選に独自候補を擁立する」と宣言した。客として招いた相手にケンカを吹っ掛けたのだ。これでは佐藤に失礼だ。それだけではない。とにかく独自候補を擁立しなければならないという状況に自らを追い込んだ。軽はずみな行為だったと言わざるを得ない。
それに拍車をかけたのが、自民党幹事長の石破茂だ。独自候補を擁立するという県連の方針に賛同し、「党本部もできる限り支援する」と応じた。ブレーキではなく、アクセルを踏み込んだのだ。本部が煽ったことで、県連の動きは歯止めがきかなくなった。

石破は5月、自民党の役員会で「年内に予定されている知事選のうち、滋賀、福島、沖縄の3つに重点を置く」と発言した。滋賀と福島は現職が非自民党系で、どちらも原発問題が争点になると言われていた。沖縄は、基地問題で自民党系の現職に逆風が吹いていた。この3知事選の勝敗は、政権運営に大きな影響を与えるという認識があったのだ。
県連会長の岩城は当初、6月28日までに候補者を決めると公言していた。この日、郡山市で県連の資金集めパーティーが予定されており、そこで候補者をお披露目しようとしたのだ。しかし、県連は候補者を決めることができず、パーティーは主役不在で開催された。岩城はその後、「お盆までに候補者を決める」と言い始めた。

この時期は自民党もまだ余裕があった。態度が変わったのは、7月13日投開票の滋賀県知事選がきっかけだった。自民党推薦の小鑓隆史が、前民主党衆院議員の三日月大造に惜敗。「政権与党」の看板があっても勝てないことが判明し、自民党は慌て出した。
8月に入り、岩城がタイムリミットとして設定したお盆が迫ってきた。それを目前にした4日、菅義偉(官房長官)と河村建夫(自民党選対委員長)が福島県知事選の対応について協議し、「与野党相乗り」という方向性を打ち出した。県連の独自候補を擁立するという方針に待ったをかけたのだ。県連の候補者選びは難航しており、今から有力な人材を発掘するのは不可能だ。独自候補を無理に擁立して大敗すれば、安倍政権の求心力が低下する。それなら、非自民党系候補に相乗り(実態は不戦敗)したほうが政権へのダメージは少ないと捉えたのだ。

県連はこれに反発し、唐突な形で鉢村健(日本銀行神戸支店長)の名前を挙げた。鉢村は福島支店長時代、県内を小まめに歩いていた。震災後は仙谷由人(官房副長官)にスカウトされ、内閣府で復興の仕事に携わった。民主党系の人材だが、震災直後のボランティア活動を通じて自民党の亀岡偉民(当時は浪人中、現衆院議員)と知り合いになった。「福島好きの鉢村なら立候補してくれる」と睨んだ県連は、猛アタックを繰り返し、実際に口説き落とした。
しかし、本部は相乗りという方向性を変えなかった。「県連を支援する」と言ったはずの石破も、態度を豹変させた。25日にTBSラジオの番組『荒川強啓デイ・キャッチ!』に出演し、「党本部が県連の候補(鉢村)を推薦しないこともありうる」と発言。ただ、この段階では鉢村を降ろすという話はしていなかった。

9月3日に政府自民党の陣容が変わり、幹事長は石破から谷垣禎一、選対委員長は河村から茂木敏充へ交代した。ここから鉢村降ろしが本格化し、周辺の支持者に圧力がかかった。誰が仕向けたかは不明だが、鉢村の選挙事務所の周辺を街宣車が走るようになった。6日に予定されていた事務所開きは、茂木の要請で延期となった。
茂木は10日、県連に対して「鉢村を推薦することはできない」と通告した。本部の推薦がなくても、選挙はできる。県連はそのまま鉢村で選挙戦に突入するという選択肢もあったが、本部の圧力に屈し、鉢村の支援を断念した。
11日に内堀雅雄(副知事)が立候補を表明した。「佐藤雄平知事の後継者」を前面に打ち出し、特定政党の支援を受けないと明言した。その直後、鉢村は「立候補を断念する」と表明した。自民党の圧力で支持者が離れたため、現状を「手足がもぎ取られた状態」と表現した。日銀を退職し、退路を絶って知事選に挑もうとしたのに、事務所開きさえできないまま終戦を迎えたのだ。

ドタバタ劇の原因は、本部と県連の思惑が食い違っていたことだ。
県連は、県政の主導権を握りたいと考えた。2006年の知事選で推薦候補(前少子化担当相の森雅子)が落選したので、その借りを返そうと必死になった。安倍政権の支持率が高い今なら、誰を擁立しても勝てると思い込んだ。だから、現職の前でわざわざ「独自候補を擁立する」と宣言したのだ。
これに対して、本部は政権運営を第一に考えた。知事選3連敗は何としてでも回避しなければならない。最初は県連の動きを傍観していたが、滋賀で負けたことで、尻に火がついた。福島で負ければ、安倍政権が推進する原発の再稼働にも逆風が吹く。そこで、非自民党系候補に相乗りし、勝ち負けを曖昧にするという戦術をとったのだ。

思い出すのは1988年の福島県知事選だ。このときも自民党は本部と県連の間に食い違いが生じ、全国ニュースで取り上げられるようなドタバタ劇を演じた。
知事選に立候補を表明したのは、佐藤栄佐久(参院議員)と広瀬利雄(前建設技監)の2人。佐藤は伊東正義(元外相)、広瀬は天野光晴(元建設相)という大物議員を後ろ盾にしていた。佐藤が知事選に立候補すると、参院補選を行わなければならない。当時は消費税導入の是非が焦点になっていたため、竹下政権は補選を回避したいという思惑があった。自民党候補が社会党候補に負けると、消費税導入が困難になるからだ。
これを踏まえ、県連内では佐藤と広瀬の双方を降ろし、第三の候補を擁立するという話が持ち上がった。幹事長の安倍晋太郎(安倍晋三の父)もまた、その案に賛同した。第三の候補は、福島テレビ社長の岡田宗治(元副知事)と決まった。しかし、広瀬陣営の動きが止まらなかったため、この案は実現しなかった。
本部は県連の争いを収めようとしたが、伊東、天野、斎藤邦吉(元党幹事長)、亀岡高夫(元建設相)、渡部恒三(元厚生相)ら大物議員が揃っていたため、抑えがきかなかった。佐藤は参院議員を辞任し、知事選に立候補。参院補選には石原健太郎(元衆院議員)が立候補し、社会党の志賀一夫と議席を争った(知事選は佐藤、参院補選は石原が当選)。
26年前は県連が本部の勧告を無視したが、今回は逆の展開になった。県連に大物議員がいなかったことに加え、衆院選が中選挙区制から小選挙区制に移行したことで、本部の権限が強まった。だから、県連が本部の圧力に屈したのだ。

※写真の説明(上から)
・自民党県連の岩城光英会長
・鉢村健事務所の看板
・自民党県連の本部が入居する中町ビル
・震災で被害を受けた福島県庁