TBSラジオの「ニュース探究ラジオDig」が5月14日、民主党幹事長の小沢一郎を特集した。政権与党の最高実力者は今、何を思考し、次に何をやろうとしているのか。鳩山政権を支える気があるのかどうか。検察との戦いはどうなるのか。関係者の話を交えながら、考えていこうという趣旨だ。
小沢は27歳で初当選し、政治生活はすでに40年に及ぶ。田中角栄の寵愛を受けながら、竹下登を中心とする創世会の設立に参加。若くして自民党幹事長になり、総理・総裁候補に踊り出た。しかし、竹下派の跡目争いに敗れ、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、船田元、岡田克也らと自民党を飛び出した。
細川連立政権を誕生させたが、新党さきがけと社会党の離反により、野党に転落。野党勢力を結集させた新進党もあっさり崩壊した。自由党を結成したが、存在感の低下が目立った。自分を「悪魔」と呼んでいた野中広務に協力を求められ、自自公連立政権に参画。一時的に与党に返り咲いたが、結局、自民党とケンカ別れした。民主党に合流して再び息を吹き返し、紆余曲折の末に代表就任した。総理に手が届くところまで来たが、秘書が政治資金規正法違反事件で逮捕され、代表を辞任。しかし、選挙対策担当の代表代行として2009年夏の衆院選を戦い、政権交代を成し遂げた。
その後は民主党幹事長に就任し、政権与党の最高実力者として君臨した。しかし、秘書経験者3人が政治資金規正法違反で再び逮捕され、窮地に追い込まれた。小沢自身は不起訴になったものの、検察審査会が「起訴相当」を議決。鳩山政権の支持率急落は、鳩山由紀夫のリーダーシップのなさと小沢の金の問題が2大要因と言われている。
小沢側近の平野貞夫は番組で次のように言った。
「(小沢は)かわいい人ですよ。直接、会った人は悪く言わない。好き嫌いはあるけどね。怖いと言われるが、それはマスコミがつくったイメージだ。テレビのコメンテーターが世の中を分かったようなことを言っている。民主党内の反小沢勢力? 渡部恒三さんはニセ黄門だ。衆院議長になれなかったから、ああいうこと(小沢批判)を言っている。あとは偏差値議員(前原誠司、枝野幸男ら)。彼らは血も涙もない。人間が何かを分かっていない」
小沢と渡部は同じ1969年の衆院選で初当選した。小沢は岩手県、渡部は福島県出身の同じ東北人。自民党田中派に入り、「いっちゃん」「こうちゃん」と呼び合う仲になった。年齢は渡部が10歳上だが、同じ5月24日生まれなので、一緒に誕生会を開くほどの関係になった。竹下派時代は共に「七奉行」と呼ばれた。「政治改革」を名目にして自民党を離党し、新生党を結成。小沢幹事長-渡部幹事長代行が定番化した。「剛」の小沢と「柔」の渡部は相性が抜群だった。
象徴的な場面がある。新進党の代議士会で小沢と旧公明党系議員が対立し、怒った小沢が「だったら、やるか」と席を立った。隣の渡部が「待て待て」と制し、その場は何とか収まった。反小沢勢力を渡部がなだめることで、党内のバランスが保たれていたのだ。
新進党結成までの2人は兄弟のように仲がよかったが、それ以降は距離ができた。民主党で再び合流したが、その後も微妙な関係が続いた。2人が顔を並べたのは、最近では太田和美が千葉7区から福島2区に国替えした際、郡山のホテルで記者会見を開いたときぐらいか。小沢の秘書が09年3月に逮捕されたときは、渡部がテレビで「小沢君はいい判断をしてくれるはずだ」と暗に代表辞任を迫った。小沢は2カ月後に辞任し、代表代行へ。この決断が民主党の支持率アップをさせ、政権交代につながった。
党内最長老の渡部は衆院議長の最有力候補になったが、後輩の横路孝弘にその座を奪わた。小沢に辞任を迫ったことが、その原因と見られる。平野の話がそれを裏付けている。小沢にとって、渡部は目障りな存在である。本来であれば、議長に祭り上げて、発言を封じ込めたほうが得策だ。しかし、小沢は渡部を議長にせず、最高顧問の肩書も剥奪した。
アメとムチを使い分けて組織を管理するのが小沢流だ。その姿勢が敵を増やし、悪役イメージを増幅させる要因になっている。冷遇された渡部は反小沢のトーンを強め、生方幸夫副幹事長解任騒動のときは一貫して生方を擁護した。(続く)
小沢は27歳で初当選し、政治生活はすでに40年に及ぶ。田中角栄の寵愛を受けながら、竹下登を中心とする創世会の設立に参加。若くして自民党幹事長になり、総理・総裁候補に踊り出た。しかし、竹下派の跡目争いに敗れ、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和、船田元、岡田克也らと自民党を飛び出した。
細川連立政権を誕生させたが、新党さきがけと社会党の離反により、野党に転落。野党勢力を結集させた新進党もあっさり崩壊した。自由党を結成したが、存在感の低下が目立った。自分を「悪魔」と呼んでいた野中広務に協力を求められ、自自公連立政権に参画。一時的に与党に返り咲いたが、結局、自民党とケンカ別れした。民主党に合流して再び息を吹き返し、紆余曲折の末に代表就任した。総理に手が届くところまで来たが、秘書が政治資金規正法違反事件で逮捕され、代表を辞任。しかし、選挙対策担当の代表代行として2009年夏の衆院選を戦い、政権交代を成し遂げた。
その後は民主党幹事長に就任し、政権与党の最高実力者として君臨した。しかし、秘書経験者3人が政治資金規正法違反で再び逮捕され、窮地に追い込まれた。小沢自身は不起訴になったものの、検察審査会が「起訴相当」を議決。鳩山政権の支持率急落は、鳩山由紀夫のリーダーシップのなさと小沢の金の問題が2大要因と言われている。
小沢側近の平野貞夫は番組で次のように言った。
「(小沢は)かわいい人ですよ。直接、会った人は悪く言わない。好き嫌いはあるけどね。怖いと言われるが、それはマスコミがつくったイメージだ。テレビのコメンテーターが世の中を分かったようなことを言っている。民主党内の反小沢勢力? 渡部恒三さんはニセ黄門だ。衆院議長になれなかったから、ああいうこと(小沢批判)を言っている。あとは偏差値議員(前原誠司、枝野幸男ら)。彼らは血も涙もない。人間が何かを分かっていない」
小沢と渡部は同じ1969年の衆院選で初当選した。小沢は岩手県、渡部は福島県出身の同じ東北人。自民党田中派に入り、「いっちゃん」「こうちゃん」と呼び合う仲になった。年齢は渡部が10歳上だが、同じ5月24日生まれなので、一緒に誕生会を開くほどの関係になった。竹下派時代は共に「七奉行」と呼ばれた。「政治改革」を名目にして自民党を離党し、新生党を結成。小沢幹事長-渡部幹事長代行が定番化した。「剛」の小沢と「柔」の渡部は相性が抜群だった。
象徴的な場面がある。新進党の代議士会で小沢と旧公明党系議員が対立し、怒った小沢が「だったら、やるか」と席を立った。隣の渡部が「待て待て」と制し、その場は何とか収まった。反小沢勢力を渡部がなだめることで、党内のバランスが保たれていたのだ。
新進党結成までの2人は兄弟のように仲がよかったが、それ以降は距離ができた。民主党で再び合流したが、その後も微妙な関係が続いた。2人が顔を並べたのは、最近では太田和美が千葉7区から福島2区に国替えした際、郡山のホテルで記者会見を開いたときぐらいか。小沢の秘書が09年3月に逮捕されたときは、渡部がテレビで「小沢君はいい判断をしてくれるはずだ」と暗に代表辞任を迫った。小沢は2カ月後に辞任し、代表代行へ。この決断が民主党の支持率アップをさせ、政権交代につながった。
党内最長老の渡部は衆院議長の最有力候補になったが、後輩の横路孝弘にその座を奪わた。小沢に辞任を迫ったことが、その原因と見られる。平野の話がそれを裏付けている。小沢にとって、渡部は目障りな存在である。本来であれば、議長に祭り上げて、発言を封じ込めたほうが得策だ。しかし、小沢は渡部を議長にせず、最高顧問の肩書も剥奪した。
アメとムチを使い分けて組織を管理するのが小沢流だ。その姿勢が敵を増やし、悪役イメージを増幅させる要因になっている。冷遇された渡部は反小沢のトーンを強め、生方幸夫副幹事長解任騒動のときは一貫して生方を擁護した。(続く)