私は、SNSで弱音を零している人に対し、心無い言葉を浴びせかける人に嫌気がする。
確かに、メールのように自分宛で直接弱音ばかり送られてきたら疲れてしまうだろうけれど、
自分とは関係のない人が独り言で投稿している分には、いいじゃない。
私はそう思うのだけれど。
でも、自分自身が弱音を吐いたとして、その時に心無い言葉をかけられたら……って思うと、私はSNSに吐露をすることはできないし、しようとも思わない。
だって、ただでさえ心が苦しくなっている時に、苦しみが増えたら嫌だから。
自分を守る一つの術として、私はSNSには精神の暗い部分は出さない。
私の場合は、仕事関係の方、有り難いことに私の文章を好きでいてくださる方のこともあるから、出せないというのもあるんだけどね。
それでも、人間だからいつでも前向きになれるような言葉や生き方を考えさせるような言葉、深い言葉ばかりを生めるわけではない。
心の中がぎすぎすしていたり、悲しくて仕方がなかったりする時には、心の傾斜に文章も引っ張られてしまう。
だから、そういう時には私は仕事以外の文章は書かなくなる。
創作には向いている状態ではあるけれど、ブログやSNSには不向きな状態だから。
でも、ふと思った。
元気なふりをし続けるのって苦しいな、って。
疑心暗鬼にだってなる。汚い言葉を吐き出したくなることもある。弱音を吐きたい時だってある。マイナス思考になることだってある。
それらを全て隠すのって、大きなエネルギーが必要なんだ。
そして、隠していると、隠している奥の方で孤独になる。
そう考えると、元気なふりって自分のイメージを守ること、誰かに心配をさせないためにしか役に立たないんじゃないか。
少なくとも、自分の心のためにはなっていないんじゃないか。
辛い気持ち、悲しい気持ち、苦しい気持ち。
誰にも見つからないようにするために沈黙し、無理をして平気なふりして笑う。
そして、本当の気持ちは誰にも言わない。
そんなことをしていたら、心の中は負の汚泥のようなもので溢れてしまい、一人の時にはその中で溺れてしまう。
家庭環境、性格、交流する人たちの中で持たれているイメージ。
それを思うと、私はプライベートでも元気なふりをするのが癖になっていた。
でも、これはいつか、きっと私自身を壊すもの。
それを知っているから、私は元気なふりをやめて、本当の気持ちを表面に出した。
誰にでも出すわけではない。
いつもお世話になっているご住職、遠く離れた田舎に住んでいる師匠。
このお二人にだけは、絶対に元気なふりをしないと決めている。
お二人も私を理解してくれた。そして、受け止めてくれる。
私は知り合いは多くても、友達は少ない。
自分で書いていて悲しくなるけれど。(笑)
だけど、家族でもないのに私をただの一人の人間として受け止めてくれる、そんな存在の人が二人もいるということは幸せだと思っている。
なんだか今回はまとまりのない文章になってしまったけれど、とりあえず言えるのは、”元気なふり”という”仮面”には限度があるということだ。
どこかでは出さなければ、壊れてしまうから。